「枕草子」が描いた世界《其の25》

藤原斉信が清少納言を尋ねてきた。藤原斉信が、伊周と花山院の騒動を道長に通報したことで事件が大きくなり、伊周・隆家が左遷されることとなる。

つまりは、中関白家からすれば「裏切者」である。

その斉信が清少納言を尋ねてきている。しかも、この二人は必要以上に仲が良いことは皆が知っている。清少納言は妹を同席させて密談を遮断している。

斉信の要件は、おそらく落ちぶれていく中関白家を見限って道長に寝返るように勧めに来たと思って、ほぼ間違いがない。

暮れぬれば参りぬ。
 御前に人々いとおほく、上人など候ひて、物語のよきあしき、にくき所などをぞ定め、いひそしる。

~ 一部省略 ~

「このことどもよりは、昼、斉信が参りたりつるを見ましかば、いかにめで惑はましとこそおぼえつれ」と仰せらるるに、「さて、まことに、つねよりもあらまほしくこそ」などいふ。
 「まづそのことをこそは啓せむと思ひて参りつるに、物語のことにまぎれて」とて、ありつることのさま、語り聞こえさすれば、「誰も見つれど、いとかう、縫ひたる糸、針目までやは見とほしつる」とて笑ふ。

夜になって清少納言が定子の局に参上すると、定子が「昼に斉信がきましたよ。いつにもまして、とても素敵でしたよ」と言われ、清少納言は「その報告に参上しましたが、物語(宇津保物語)のことなどに紛れてしまって」といいながらも「ありつることのさま」を事細かに報告すると、「あなたのように、縫ってある糸や針目までじっくり見てはいませんよ」と言って笑った。

が、定子はともかく、局の女房達は微妙に清少納言と藤原斉信の関係を疑い出し、しかも、清少納言が藤原道真をも、素敵だと思っていることを知っているので寝返るのではという疑念がもたげだしてきている。

藤原伊周が花山院の牛車を襲撃したのは996年1月16日だったそうである(長徳の変)。そのことで伊周が大宰府、隆家が出雲に左遷される勅命が出るのが4月24日。その日に藤原斉信が参議に取り立てられて公卿になる。

道長に対して、政敵であった兄の子の伊周を左遷することができたことへの論功行賞であった。

同時に、清少納言にも、定子付きの女官たちから疑念の目で見られることとなっていく。