YouTubeと民主主義
YouTubeには「屁」のような切り抜き動画が多い。多いというレベルではなく「すごく」多い。特徴は、無調整な自動音声と誤植も多いテロップ。
これで、話題の動画から切り取ってお金が稼げるのだとすれば、いい稼ぎ口となりえるので、多発することは当然の帰結である。
石丸伸二さんは、自己の動画の切り抜きを容認している。というのは、どんどん派生させていくことで自己の主張を幾何級数的に波及させることができるので容認している。
つまりは、大元の発信者とすればマイナスは全くない。切り抜きした人は、発言力のある人を題材にお金が稼げるから話題になるほどアクセスが増えるという相乗効果が見込めるので、双方、Win-Winの関係になる。
しかし、石丸伸二さんはテレビ朝日のインタビュー120分を10分に、恣意的な編集をしたことで怒っており、テレビ朝日の担当デスクを「馬鹿者」とした。
つまり、切り抜きとは、間違いなく「恣意性」に基づく編集である。
「石丸-テレビ朝日」の件で言うなら、インタビューを受けるときの契約にきちんと記載しておけばよかっただけのことで、契約がないのであれば、インタビューした側がコンテンツを所有するので争いは法廷で決着する以外にない。
YouTubeにすれば、動画を配信するためのインフラや運営に関する多大な費用の負担があるが、それは広告主が支払ってくれるから、経済合理性に叶っている。経済合理性に叶っていなければやめるだけのことだ。。
切り抜き動画に戻ると、誰が遺失しているかというと視聴者に決まっている。しかし、遺失しているのは時間だけで、利益を遺失しているわけではない。
視聴者は嫌なら見なければいいだけで、その自由は許されている。YouTubeを見なければテレビを見ているだけのことでしかない。
すべてうまくいっているようだけれど、本当にそうなのとも思えない。まさに、民主主義の行きつくところの縮図のような気がする。
人気の集まるところが、必ずしも正しいわけではない。「選挙」という人気投票で選出した政治家が国家国民にとって最良の選択だとは限らない。その彼らの陰で、定年まで安泰で、その先の天下りまでをもゲットしている官僚がいいように政治家を操る。
その結果が、いまのような低調な政治レベルに堕しているのは、たまたまではない。民主主義の当然の帰結である。その背後にあるのは「欲」であり、構図はYouTubeの切り抜きと何ら変わらない。
つまり、「八方好し」なんてものは、この世に存在するはずがないということになる。「七方」良くても「一方」によくないことがあるぐらいの不健全さの方が、人間は清廉に生きられるような気がする。
まず、まかり間違っても今の政治家と官僚とでは「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」のようにはなりっこがないのが、民主主義の限界であるが、権力側に清浄を求める困難よりも、この民主主義によって堕落していく国民意識のほうが将来・未来に大いなる禍根を残す。
そもそも、資本主義とは強者が弱者から合法的に奪い取る仕組みでしかなく、民主主義とは大衆迎合の仕組みでしかない。この両者がタッグを組めば「堕」していくのは時間の問題でしかない。
とはいえ、中国やロシアのような、国民へ「堕」を強制・強要する全体主義国家より、自発的に「堕」していくことのほうがマシな感じがしているだけのことだ。