「神経」という名称から考えたこと

神経は、前野良沢や杉田玄白らが『解体新書』を翻訳する際、オランダ語「zenuw」の訳として「神気」と「経脈」を合わせて造られた造語だそうです。「神気」は精神を表わし、「経脈」は経路(「経」は動脈、「路」は静脈)のことで、つまるところ「神経」とは「精神の経路」の意味でつくられた造語といえるのだそうです。

西周は、「哲学」「真理」「芸術」「理性」「科学」「知識」「定義」「概念」「命題」「心理」「物理」「消費」「取引」「帰納法」「演繹法」「権利」などを造語したとされています。

福沢諭吉は、「自由」「経済」「演説」「討論」「競争」「共和」「抑圧」「健康」「楽園」「鉄道」など。

「明六社」では、「教育」「開発」「経営」「人民」「個人」「商社」「簿記(貸方・借方)」などが作られたとされています。

荘子は、「事物はそれを名付けてその名で呼ばれることから事物としての概念を持つようになる。そうだとするものをそうだとし、そうでないものをそうでないとする。なにをもってそうであるとし、なにをもってそうでないとするかといえば、単なる主観でしか無い。しかし、通用するようになると、それが『それ』になる。通用しなければそれが『それ』でなくなる」と説明しています。

西洋から直輸入されたさまざまな「概念」を、そのままカタカナで呼称して「それ」とするような横着をせず、中国伝来の漢字を駆使して熟語を作って日本になかった概念を「それ」として定着させていきました。

普段、何気なく使用している様々な用語ですが、考えてみればこのような先達たちの才能があればこそ、日本の文化が開花(文明開化と称した)しているわけで、それに比べると今の日本では、どんどん入ってくる欧米の概念を日本語に置き換えることなどできず、単にカタカナにして日本語化しようとしていることに文化レベルの低迷を感じざるを得ません。

何日か前に「コミュニケーション」という言葉を取り上げましたが、これを「意思疎通」とするならせめて「思通」のような造語をあてて概念の日本語化をしていかないならば、いずれ日本語が言語としてガラパゴス化していくような気もします。

そもそもを言えば日本発の「概念」を作り出せないくらいにイノベーションが欠如しているとも言えそうです。