ひたすら

「ひらすら」を漢字にすると「只管」と書く。音読みでは「しかん」で、語源は曹洞宗にあるようだ。道元が北条時頼に呼ばれて鎌倉に来た時にどうこうしたというような、同じような記事がたくさんアップされている。

ここに石碑が立っているいわれについてちょっと調べただけではたどり着けなかったけれど、ややマシな説明がChatGPTで「この碑は、道元禅師が鎌倉時代に鎌倉へ行脚した場所を記念し、その教えや功績を後世に伝えるために建てられました」とのこと。

「だれが、何の目的で」と重ねて聞いたら「申し訳ありませんが、私の前述の回答には具体的な情報が含まれていませんでした。道元鎌倉御行化顕彰碑についての情報が私のデータベースには存在しないようです」とのことでした。

いずれ鎌倉に行ったときにでも「道元鎌倉御行化顕彰碑」に行けば、少しは詳細が分かるかも知れません。

ここで書きたかったことは「ひたすら」を「只管」と書く理由を知りたかったのですが、要するに「只管打坐」が語源で「ひたすら座禅をする」ところからきていることだけは確かなようです。かといってあえて「只管」だけを切り出して、何の宗教色もないのに「ひたすら」と読ませる理由がよくわかりません。

考えようによっても道元を愚弄しているようにも思えます。伝え聞くところでは北条時頼に鎌倉に来るように言われた時も権力に距離を置きたかったため嫌がったようであるが、波多野義重に頼まれていやいや鎌倉に出てきたようなことが書かれていた。

波多野義重は、北条重時の娘を室とし、重時の被官として活躍したとあり、重時は北条義時の三男。道元が京都にいたときに比叡山から嫌がらせを受け波多野義重の所領の越前にかくまってもらった。それが永平寺や曹洞宗になっていくが、それすらも道元は嫌がったらしい。

道元は和歌の名手でもあった。

人しれず めでし心は 世の中の ただ山川の 秋のゆふぐれ

山ふかみ 峰にも尾にも 声たてて 今日も暮れぬと ひぐらしぞなく

長月の 紅葉のうへに 雪ふりて 見る人たれが 歌をよまざらむ

尋ね入る 深山の奥の 里ぞもと わがすみなれし 都なりける

濁りなき 心の水に すむ月は 波もくだけて 光とぞなる

有名なのが、

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり

一番好きなのが、

世の中は 何にたとへむ 水鳥の はしふる露に やどる月かげ

ひたすら、越前の山奥にすみ、自然を友として修行をしている。栄西とは一度会っている可能性が指摘されている。栄西は1141年に生まれて1215年に没している。道元は、1200年に生まれて1253年に没している。本当にあっているとするなら道元が少年の時に、栄西最晩年に会うことは可能である。