「侏儒の言葉」の意味するところ
そもそも、「侏儒」とはなにかといえば、「並外れて背丈が小さな人」と言う意味だそうです。差別用語でもあるようなことも書かれていますが、今ではそのような受け取り方をする人も少ないでしょう。
別の意味として「見識のない人」として使うこともあるようです。
ここで取りあげる「侏儒」は、自己を謙遜する芥川龍之介のことで、「侏儒の言葉」は、彼が自殺する昭和2年までに書いてきたエッセー集ということです。
青空文庫からテキストをダウンロードしてワードでA4縦書き2段組にして48ページにもなり、毎日少しずつ読んでいます。
彼は結構、当時の体制を好んでいなかったことは歴然としています。昭和14年には軍部から処分を受けています。
小児
軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似ているのは喇叭や軍歌に皷舞されれば、何の為に戦うかも問わず、欣然と敵に当ることである。
この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も――わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?
これなら、軍部が怒るのも理解できなくはない。
しかし、その昔に東京帝国大学を出た人たちの教養とはすごいもので、ただただ感心してしまいます。テレビやスマホがなかったことも大きく影響していると思いますが、古典に対する理解の深さが彼らの教養になっていることは間違いがなく、それをいえば平安の貴族の子女たちも同様のことで、かつての日本人は、本当に日本を形づくることに寄与していたものだと感心する「侏儒」の感想でした。
鎌倉に義時由来の覚園寺があります。実朝が公暁に殺害された時、義時を結果として助ける夢を見ることになり、お堂を立てることになり貞時の時にお寺になったそうです。その後、北条を倒した足利尊氏が本堂を立てて、その本堂の天井に足利尊氏直筆のサインが書かれています。
戦時中、軍部はこの尊氏の銘を外すよう覚園寺に命令しましたが、覚園寺はこれを拒否し国賊の寺と呼ばれ非難を受けたという逸話が残っているとのこと。足利尊氏といえば、幕末には尊皇派から木造の首をさらしたという事件が起きましたが、逆賊と言うことなら義時のほうがよっぽど逆賊のような気がしますが、いかがなものなんでしょうか。