合羽橋で見つけた装飾金具

台東区河童橋にある「草々野」というお店のドアに付けてある古式豊かな金物の装飾の写真を撮ってきました。

「合羽橋」は「河童橋」ではなく、雨合羽の合羽屋喜八(別称:合羽 川太郎)が合羽橋の名前の由来の一つとされる。

この「草々野」は、和風インテリア小物のお店だそうです。どこかで集めてきた骨董の「鍵」を扉に配しているのだと思います。鍵穴の近傍にあるのはダイアルのようですが、詳細は全く不明です。

どの時代の物なのかも不明ですが、この装飾性に驚かされます。

工業化が進み、手作業で作ると「工芸品」とかになって、髯を生やして哲学者のようなクラフトマンが、難しい顔して難しい説明をして「先生」になってしまう昨今ですが、かつては、職人が腕を競っていたわけです。

宮大工が六角堂とか八角堂を作るというYouTubeがありましたが、「六角堂」で調べるとwikiに記事がありました。要は聖徳太子が関わって京都の頂法寺に六角堂を作ったということです。発掘調査では、遺構は見つかっていないようですが、「藤原道長の日記『御堂関白記』寛仁元年(1017年)3月21日条に、「六角小路」という地名が見えるのが早い例である。他にも『小右記』(藤原実資の日記)などに六角堂の名が見える」とあるので、どこにあったのかともかく、平安時代(西暦1000年前後)にはあったようです。

現代の宮大工が、それなりの工具を使い、現存する六角堂を参考にして作るのと違い、創造性豊かに無から創出することに驚かされてしまいます。

失敗続きであるもののロケットを打ち上げたり、生成AIで文書や画像が作れたりすることで驚いてしまいますが、よくよく考えてみれば飛鳥時代に何事もなく六角堂や五重塔を作ってしまうことの方が、創造性からすれば圧倒的に上のような気がします。

本居宣長は、古今和歌集があれば、新たに和歌を作る必要はないと言っていたけれど、創造性において、明治を含めた以前(つまり工業化する以前)の創造性には及ばなくなっているのは、「時代」の影響によるのでしょうか。

最後に

久々のギザ十。1953年に作られて71年経って、手元に来ました。