大鏡:其14《帝紀-三条天皇》

11歳で立太子。生母は藤原兼家長女の超子。超子の母は時姫。36歳で即位した。上皇になってからは全く目が見えなくなったものの、傍目には少しも普通と変わらず、瞳もきれいに澄んでいた。

三条天皇は、禎子(三条院の皇女、母は道長の長女・妍子)をことのほかかわいがり「御髪をみられないのが情けない」といって声を立てて泣いた。禎子が来るたびにお土産を上げた。

寒のうちに水垢離をしたり金液丹をという薬を飲んだり比叡山の根本中堂に登ったり太秦の広隆寺に参籠したりしたが霊験は見られなかった。

斎宮が伊勢へお下がりになるとき、儀式の御髪を斎宮の御髪に差してあげてからはお互いに振り返ってはならない掟になっているのに三条天皇は振り返ってしまったため晩年に不幸なことになってしまった。

  • 生来、三条天皇は眼病を患っていた。彰子の生んだ敦平親王を早く即位させたい道長の圧力により譲位し、その翌年に崩御している。
  • 斎宮には当子内親王(母は藤原済時の娘・藤原娍子)で12歳で伊勢斎宮に選ばれるが4年後に帰郷し藤原伊周の息子の道雅と密通し三条天皇から勘当され出家した。

母は藤原兼家の長女の超子。花山天皇が出家して7歳の一条天皇が即位(986年)すると兼家が11歳の居貞親王を後押しして東宮にする。991年に藤原済時の娘娍子が入り、994年には敦明親王を儲けたが、後に道長が圧力をかけて皇太子を辞退させた。

道長が送り込んだ藤原妍子を中宮に立てたものの三条天皇は、藤原済時の娘である藤原娍子を皇后にすることで道長と対立することとなる。それでも息子の敦明皇太子が天皇になれば、流れが変わったはずであるが敦明親王も道長の圧力に屈し皇太子を辞退する。

藤原妍子が産んだ禎子内親王は、藤原彰子が生んだ後朱雀天皇の皇后となり、1034年に尊仁親王を出産する。

摂関家の藤原頼通や教通らが次々と娘たちを入内させるかたわら、禎子内親王を支えたのが、彰子・頼通・教通らの異母弟であった能信であった。尊仁親王は異母兄である後冷泉天皇の皇太弟となり、1068年に後三条天皇となる。宇多天皇以来、170年ぶりに藤原氏を外戚に持たない天皇が誕生した。

後一条天皇から先の天皇は大鏡から逸脱してしまうので、あまり触れないが、この後三条天皇あたりから藤原摂関家の力は低下の一途をたどっていくこととなる。禎子内親王は、国母となり、藤原彰子にも劣らないほどの力を持つようになる。孫の白河天皇と対立するものの、白河上皇が歩み寄ったようだ。享年82歳。