「枕草子」が描いた世界《其の02》

春は、あけぼの
夏は、夜
秋は、夕暮れ
冬は、つとめて(早朝)

「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」とパステルで描いた絵のような色使い。

道元が鎌倉時代に「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり」と詠んでいる。慈円も、道元の和歌をなぞるような今様を書いているのに比べて、春が花ではなく「あけぼの」という「時」であることに清少納言のたぐいまれなる美意識が現れている。

枕草子の原本は今の世に伝わっておらず、写本がいくつかあるだけになっている。初段はどれなのかについては諸説があるとのことであるが、「春は、あけぼの」から始まるであろうことは諸説においても一致している。

当初、藤原定子の兄、伊周が紙の束を定子にくれたとき、定子は「古今和歌集」を書き写そうと考えていたとのこと。その「古今和歌集」で春の歌には「桜」が結構詠まれている。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし(在原業平)
花の色は 移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに(小野小町)

などのごとくであるのに、清少納言は一切、「花」には触れていない。

994年のある春の日に皇后定子18歳は女房達に色紙を渡して「古歌を書くように」という。清少納言29歳。

歳ふれば よはひは老ひぬ しかはあれど をし見れば もの思ひもなし

と書いて渡した。この歌は「古今和歌集」にも掲載されている歌で、藤原良房が娘の明子が文徳天皇の女御となり、清和天皇を生むことで藤原一門の隆盛の起点となるわけで、その娘を「」と見立てた歌を「」に一文字変えて出した。

ちなみに、良房は、良房ー基経ー忠平ー師輔ー兼家ー道隆の娘が藤原定子となる起点になった人である。

この章段を書いたときに定子はすでに死んでいたのか、あるいは存命だったのか?

そのことは清少納言にとってはさほどのことでもなく、藤原定子17歳から24歳まで女房として仕えたすべてのエピソードを凝縮したエッセーが「枕草子」であった。

藤原定子が死んで5年の後に、藤原彰子の女房として仕えたのが紫式部であった。その日記「紫式部日記」の書き出しが「秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし」であり、書き出しの美しさは圧倒的に清少納言に軍配が上がる。