「枕草子」が描いた世界《其の06》

宮に初めて参りたるころ、ものの恥づかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて、三尺の御几帳の後ろに候ふに、絵など取り出て見せさせ給ふを、手にてもえさし出づまじう、わりなし。

177段

清少納言が藤原定子の女房として勤め始めたのは993年とされています。藤原定子が16歳。清少納言は27歳。

どういういわれで清少納言が藤原定子の女房になった経緯が不明であるけれど、定子付きになった早々のころは「恥ずかし」くて泣いてばかりいたとのことで、夜に宮中に入って几帳の後ろに隠れていたら、定子が絵を取り出して見せてくれたのに、清少納言は手を出すことすらできなかったと言っている。

清少納言がどれだけ高貴な育ちであったのかは不明だけれど、貴族の娘は通常なら人前にはでなかったうえに、藤原定子は一条天皇の中宮でもあり、気おくれはするのは仕方がない。

これは、とあり、かかり。それが、かれが。

こういう言い回しが、清少納言のうまさ。夏の蛍は「ただ一つ二つなど」とストレートに言うかと思えば、秋には鳥が「三つ四つ、二つ三つなど」と実にうまい表現ですね。

中宮が絵を見せながら「これはこうだし、ああだし。こうかしら、ああかしら」などと説明までしてくれる。16歳の女性の意識はどのようなレベルなのかは分からないものの、定子の母は高階貴子といって、円融朝に内侍として宮中に出仕し、漢才を愛でられ殿上の詩宴に招かれるほどで、その才能を高く評価されて藤原道隆の妻となっている。

高階貴子の歌が新古今和歌集に、

忘しの 行末まては かたけれは けふをかきりの 命ともかな
いつまでも忘れないとはいうけれど、遠い未来までなんてどうなるものかはわからない
いっそ、今日を限りの命ならばいいのに

と、残っている。藤原定子は母から漢文をかなり(おそらく徹底的に)教わっているし、兄の伊周も漢文の素養があったことは枕草子にもいろいろな場面で登場する。

いと冷たきころなれば、さし出でさせ給へる御手のはつかに見ゆるが、いみじうにほひたる薄紅梅なるは、限りなくめでたしと、見知らぬ里人心地には、かかる人こそは世におはしましけれと、おどろかるるまでぞ、まもり参らする。

「はつかに見ゆる」とは「わずかに見ゆる」ということ。寒いころなので、手を出すといっても指はわずかしか出ていない。その指はいみじくも薄紅梅のようで、この世のものとも思えないくらいに美しい。このような人がこの世にいたことに驚いてしまって目を離すことすらできなかった。

「まもり参らする」は「見守る」ということで、「参らする」の説明には「係助詞 ”ぞ” を受けて連体形となっている。動作の対象である中宮定子を敬っており、作者からの敬意」とのこと。このへんはどうでもいい。当時には文法なんて考えはなかったし、当然品詞なんて考えもないのだから「係助詞」もあったのものではない。

古典はどうやって鑑賞するかと言えば意味なんて後回しで「すがた」に親しめと小林秀雄さんが言っている。

葛城の神もしばし
・・・
下りまほしうなりにたらむ
さらば、はや
夜さりは、とく

夜明け前には帰ろうとする清少納言に対して「葛城の神」をたとえとして出している。「葛城の神」とは、一言主神のことで、橋を架けようとしたが容貌が見にくかったので夜だけ仕事をしていたが完成しなかったことから「成就しないことのたとえ」や「昼間や明るい所を恥じたりするたとえ」に使われるのだとか。

「下りまほしうなりにたらむ」は、「退出したがっている」。「さらば、はや」は「ならば、早く」。「夜さりは、とく」は「その代わり、夜は早く来るように」というような会話。

そうこうするうちに局の主が「あへなきまで御前許されたるは、さ思し召すやうこそあらめ。思ふにたがふはにくきものぞ」ということから、清少納言は、中宮の御前があっけないほどの短期間に許されているのにも、何か理由があるはずなのに、その考えにも馴染もうとしないのは心得違いであるとたしなめられる。

御殿に上がるのは嫌なことだと言いながら「火焼屋の上に降り積みたるも、めづらしう、をかし」などと言っている。「火焼屋」とは、宮中などで庭火・かがり火をたいて夜を守る衛士(えじ)の詰めている小屋だそうで、その小屋の屋根に雪が積もっているのもいいものだと鑑賞しているところを見ると、定子から特別に目をかけられているような気配を察知して、それなりに高揚する気分を抑えることもできずに景色を鑑賞している。