武烈天皇のすごさとは

タリム盆地のミイラが、「ミイラは続々と発見されており、最も古いもので紀元前2100年頃、最も新しいものは紀元前500年頃のものと測定されている」と書かれていた。

差し引きすると1600年。日本で今を遡ること1600年前というと西暦で400年ころになる。天皇で言えば、履中・反正・允恭あたりになる。彼等はそろって仁徳天皇の皇子たちである。

代でいえば、17代、18代、19代ということになる。

文字が伝わるのが500年代ということになっているけれど、そんなはずはないと思っているけれど根拠がない。

で、天皇を遡っているときに見つけたのが「武烈天皇」である。25代で489年に生まれて506年に亡くなっている。差し引きすれば17歳。

498年に父である仁賢天皇が崩御することで10歳で践祚した。

『日本書紀』には天皇の非行の数々が具体的に記され、暴君として「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあり、非常に良くない天皇として描かれている。しかし『古事記』には、そのような暴君としての記述は全くない。

武烈天皇が後嗣を定めずして崩御され、皇子女もなく、後嗣のない状況に陥る。皇統の最大の危機である。越前から第15代応神天皇の5世孫・男大迹王をお迎えすることでつなぐことになった。

勅命もなく、遺詔もない状況で、臣下の者が協議して皇統の人から後嗣を選任してご即位頂くという皇位継承が行われたことになる。

実際は越前・近江地方に勢力を持っていた豪族が、武烈天皇の死後皇統が絶えたことを良い機会と捉え、皇位を簒奪したのであって、ここで別の王朝が生まれたとする説もあるが、どこまで本当の話かは何とも言えない。

さて、その武烈であるが、日本書紀には「しきりに多くの悪行をなさって、一つも善業を行われなかった(頻造諸惡、不修一善)」。その内訳がすごい。

妊婦の腹を裂いてその胎児を見た。
人の爪を抜いて、芋を掘らせた。
人の髪を抜いて木登りをさせ、木の根元を切り倒し、登らせた者を落として殺して面白がった。
人を池の樋に入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃の矛で刺し殺して喜んだ。
人を木に登らせて、弓で射落として笑った。
贅沢にあけくれ、百姓が寒さに凍えることを意に介さず、美食をして天下の飢えを顧みなかった。
さかんに小人や俳優に淫靡(いんび)な音楽を奏させ、奇怪な遊びごとを設けて、淫らな音楽を好き放題におこなった。

それ以外にも、個々に書きたくもないような悪行を繰り返していたとのこと。

日本に文字が伝わる以前のことを、720年に完成した日本書紀が伝えているのだから、どこまで本当のことかは不明だけれど、可能性は「無」ではないだろう。そうじゃなければ、伝わることも無かったろうから。多少の脚色はあるのだろうけれど。

16、7歳程度で突然死んで、継嗣が不在であったため越前から次の天皇を連れてくるのが継体天皇ということになっているが、武烈天皇の異常行動などを考えると政変があったと考えられる。

異常行動が目に余る武烈を誅殺して越前の豪族が皇位を簒奪したという話もあるが、なんにせよ、文字がない時代のことだから真実は分からない。

簒奪した継体天皇が歴史を改ざんしたのか、武烈天皇の周辺に仕えていた者たちが武烈を暗殺し、新たな神輿として継体を担ぎ出した可能性も否定できないが、記録がない時代なので、どうとでも解釈はできる。