荘子を考える:斉物論《其の08》

喜怒哀樂:喜怒哀楽あり

慮嘆變慮嘆変慹(りょたんへんしゅう)あり

姚佚姚佚啓態(ようたいけいたい)あり

樂出虛:楽は虚より出で

蒸成菌:蒸は菌を成すがごとく

慮嘆変慹(りょたんへんしゅう)
慮(おそ)れまた嘆(なげ)き、変(うつ)りぎなるかとみれば、慹(ひとえ)にとらわれ

姚佚啓態(ようたいけいたい)
姚(しなつ)くるかとみれば佚(きまま)にふるまい、啓(あけすけ)なるものあり、態(もったい)ぶるものあり

喜怒哀楽慮嘆変慹姚佚啓態のような感情のさざなみは、風が吹くと様々な穴や凹凸から様々な音が生まれ出るようもの。こうした心の変化は相手がいなければ起こるものではなく、同時に相手がいなければ自分という存在もなくなる。自分という感情がなくなれば様々な心の有り様もなくなる。では、一体何がそのように心に起伏をもたらすのであろうか。結果は明らかであるのに原因がわからない。

風が吹くと竹や木々の穴、大地の窪みから音が出る。その音色は、竹や木や地面の起伏が選んで奏でるわけではない。風に呼応して様々な音色は「自らで」選ばれている。

感情の起伏も似たようなもので、他者の有り様に応じて自分の対応が変わるが、その対応は「自らに(受動的に)」選ばれているのであって「自らが(主体的)」選んでいるわけではない。つまり、主体がないのに結果があるということになる。

人間が生きることとは、「喜怒哀楽」そのことに他ならない。しかも相手がいなければ自己は自己の思惟の中にしか存在しなくなる。このような自己の本質と自己の現象形態の相関性に刮目するときに、初めて自己の存在という実相に近づくことができる。

人間の心の万籟(ばんらい)を成り立たせるものはなにか。自己の思惟として万籟を起こしているわけではなく、はなはだ受動的に心がさざめく。その主体はいったい何に起因しているのだろうか。

五臓六腑が整合的に機能しているのは、何が支配しているのだろうか。結局は自然(天)の行いに他ならない。とすれば、「喜怒哀楽」「慮嘆変慹(りょたんへんしゅう)」「姚佚啓態(ようたいけいたい)」の全ても自然によって奏でられている万籟でしかないことになる。そのことを、そのまま受け取るときに人は自己という我執から超越することができるのである。

楽出虚、蒸成菌」の解釈

  • ここでいう「楽」の意味は不明であるが、「虚」から出て蒸した菌のように増殖する感情のことを言っている
  • それはさながらに、「喜怒哀楽」という感情が、他者との関りから生まれて増殖するさまを言っている
  • そのさまはまさに風が吹けば様々な音が出る木々や地面の凹凸にも似たものであって、そこには自発性は見当たらず、かといって主体があるわけでもないのに感情に起伏が生じている