荘子を考える:斉物論《其の07》

大知閑閑:大知は閑閑(かんかん)たり

小知閒閒:小知は間間(かんかん)たり

大言炎炎:大言は炎炎(たんたん)(淡淡)たり

小言詹詹:小言は 詹詹(せんせん)たり

大知」のあるものは、ゆったりとして落ち着いているが、「小知」のものはこせこせとして、こまごまと穿鑿(せんさく)する。偉大な言葉は、あっさりと淡泊であるが、つまらぬ言葉は、いたずらに口数が多く煩わしい。

人間精神の「ざわめき」「きしり」、自己主張の「叫喚」、自己喪失の「呻吟」も「天籟(てんらい)」であるとする。

話は続いていく。寝れば夢を見て心を乱し、起きていれば互いの交際で面倒が起こり、立場を少しでも有利なものにしようと画策する。

しかも、しぼみ枯れていくさまは秋冬のごとくであり、日ごとに衰え老衰して元のように戻ることはできない。

人と人が出会い、コミュニケーションをとる。そこに相互の理解が生まれると、ささやかな喜びとなる。それが異性との出会いなら「運命」を感じたりして、幸福に浸れるのが、これまた人間的な営みでもある。

荘子の言葉は、自分だけは達観しているというポジションから言葉を発している。教祖だから仕方がないとして、それを前提に言葉を受け取らないとならない。

「大知」が「ゆったりしている」とはいうものの、今まで生きてきてゆったりしている「大知」の人に出会ったことはきっと少ない。多くの「大知」は、よく勉強もし、理解もし、記憶力も思考力も卓越している。そうした人たちの、確かに言葉は少ないし、深い話をしようとしないが、深い話をする意味性を考えている。

政治家はよくしゃべる。彼らがしゃべるのは、しゃべらなければ理解が得られないからである。なかには「小知」の人も少なくない。「小知」であるがゆえに、知識を振りかざそうとして、ことさらあたかも重厚な主義主張があるかのようにしゃべることは事実である。

しかし、よくしゃべるから「小知」で、寡黙なら「大知」かというと、あながちそうでもない。

結局、人間の価値は「大知」でも「小知」でも「大言」でも「小言」でもなく、とどのつまりは「人柄」に尽きる。哲学を語る人は、難しい話をする以前に、いかにすれば人間の人柄をよくすることができるのかについて、多くの言葉で語って欲しい。

ひとつ言えそうなことは「収斂(全体主義・独裁)」は、国家国民として結束するかもしれないが人柄を確実に悪くする。逆に「拡散(自由主義・民主主義)」すれば、そのことでは人柄は良くも悪くもならないから「収斂国家」よりはいささかましになる。

それであまねく国民が食えるなら究極の幸福国家になる。

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