言葉における論理とは

言葉と論理性

日本語は英語に比べて非論理的であるということには全く根拠のないことである。何語であったとしても、論理的に使うかを意識しているかだけのことである。

他の言語をどうこう言えるほど知っているわけではないが、日本語の特徴としていえることは「情緒性」に富んだ表現ができるということが言えると思う。言葉にされている以外の上下前後左右などに含みを持たすことで、受け手の解釈に依存する表現も「よし」とされてきた。

例えば平安時代の32文字による伝達には、古歌や漢文の知識を前提としなければ成立しないような表現で多くのことを示唆し、意思を伝達する文化があったが如くである。わずか32文字で、言わんとすることを伝えるには「論理的」な言語の使い方では難しいだろう。

言葉の理解

論理的であるということは、言葉を筋道立てて使うことである。そのことは、言葉に普遍性を持たせることであり、分かりやすくすることであった。

EXAMPLE
(a)雨も降っていることだし、今日は外出しない
(b)雨が降っているから、今日は外出しない

外出しない理由としては(b)のほうが明確である。(a)は外出しない、いくつかの内の一つの理由でしかない。

(a)の「雨()」の「も」は、いくつかあるうちの一つであることを示している。「ことだし」とは、雨が降っていることと外出しないことの関係が明確ではない。つまり、外出しないことへの後付けの理由にしか聞こえない。

こうした会話が問題にならないのは、日常の会話で理由を明確に述べなければならないことが少ないからである。むしろ、日常の会話として考えるならば(b)のほうがいい印象を受けない。(b)には、相手の受け止め方を配慮せず、自分の理由を明確に伝えようとしているが、外出しない理由としては明確な表現になっている。

言葉を使う意味

動物の言葉は、迫る危険を仲間に知らせるためであったり、交尾の相手を誘うためであったり生きるうえで必要なものとして使っているが、人間は多様な言葉を持つにいたり、生きるために言葉を発するというよりは、人間らしく生きるために言葉を駆使するようになった。

つまり、「論理」だけを追求してこなかったことこそが、人間にとっての言葉の使い方であるともいえる。

設計図の役割

芸術家が作る「彫刻」を「わかる」かといえば、受け取り方はさまざまである。翻って、建築物の設計図をみれば、読み取ることができる人は再現性を持って「わかる」のである。

芸術家が発する言葉が「わかる」かといえば人それぞれであるが、言葉を論理的に組み立てれば、多くの読み手は「わかる」ことができる。

逆に何回読んでも意味が通じなければ「論理」に無理があるということになる。

論証とは何か

「論証」とは、理由を明示的に示して結論を導く主張のことである。言葉の設計とは、論証を組み合わせて作り上げるものである。

前提を明示的に示し、その前提から結論を導き出す。前提が示されていない限り、いきなり出された結論から「わかる」ことは難しいことが多い。わかりきったことでも、前提と結論が明示されていれば意図を「わかる」ことができる。

論証が最大の利益を生むのは、「わかりにくい」ことが「わかりやすい」ことになることである。

議論とは何か

議論とは、相互に理解がなされていない問題に対して適切な理由を述べて結論を主張することである。

相互に「わからせたい」論点があるために「わかる」ことを目的に相互が主張するものであって「わかりえない」論点であるなら議論するべきではない。

「お前は馬鹿だ」と言えば、相手から「そういうお前こそが馬鹿だ」となり、相互理解には到達し得ないと荘子はいう。これが議論なら、しないほうがマシだとする。なぜなら、自己に主張があるように相手にも主張があるからだ。

相互の主張がかみ合わなければ、相互に説得しようとやっきになり自己の主張の正当性と思うところを先鋭化させることで感情的になるという非生産的なことになりかねない。

議論するのは「わかりにくい」論点を「わかりやすく」するためのものである。

「雨降って地固まる」というが、雨が降れば当面の地面はぬかるむ。よって、相互に主張がある結論は相互にとって「わかりにくい」「わかりたくない」ものである。

しかし、「わかりえない」というわけではない。では、なぜ多くの人が、この飛躍を「わかる」のであろうか。それは、示唆する内容に「わかりやすさ」が設計されている場合においてのみ、理解することができる。

まとめ

テレビの議論番組は、主張がかみ合わないことを目的にして制作している。よって、出演者は他人の意見にかみつくことを以ってギャラをもらえる仕組みになっている。

昔テレビで人気があった「プロレス」を、あたかもの「議論」という演目でやっているだけである。

司会者(最近ではMCという)は、議論がまとまる方向にもっていってはテレビ的には失格で、議論がまとまらないことをもって良しとする。出演者が感情的になるように仕向けることが役割なので怒鳴りあえになれば成功である。相互に論点を整理し理解をしあうような結末では司会者も出演者も仕事を失う。

これを見て愛でる人たちは、意見を持つ人に対して、自分にさしたる意見がなくても、とりあえず反論することから自己の主張とするようになり、それを以って「論理」とする「屁理屈」を尊ぶ風潮になっていく。

かつてタレント弁護士がワーワーやる番組があり、あえて極端な反論からその論拠を示して得意になる姿を面白がらせていた。その一人はタレントとして成功したうえに政治家となり取材する記者を言論による暴力をもって相手を追い詰め、得意になっていた人もテレビで持ち上げていた。

自分の人生で出会った人で、人格も知能も本当に優秀で高潔な人の多くは、饒舌・多弁ではなかった。逆に動作性のIQが低くても、驚くほどに理屈をとうとうと述べる輩もいた。

言語が巧みだからと言って、決してその人の知能や人格を裏付けるものではない。単に言葉が巧みなだけだが、えてして、本人は、言語能力を以って「利口者」だと勘違いするものだ。これに似た性質に「知識」を百貨店のように持つ人間にも共通する。

BARDに聞くと「知性のある人とは、自身の豊富な知識や会話力、判断力などを、独りよがりではなく相手の立場を尊重しながら発揮できる能力です」と答えた。言語脳j力は「知識」でもあるが、その裏付けに「知性」があるかが分かれ目になるが、そこにあるのは「論理」ではなく「人格」である。