言葉の使い方を学ぶ

何を知っているのか

自転車の乗り方を知っている人に、「知っている内容を示して欲しい」と言われたら言葉でどこまで示せるのだろうか。自転車の乗り方については、意識が関与していない部分がある。暗黙知とは、無意識の領域でなせる知識のことで言葉にできないゆえに「暗黙知」という。

体験して知る、学んで知る

世の中にはこのように「知っている」が言葉で的確に表せないことは少なくない。

翻って自動車の運転の仕方はマニュアルに書くことができる。

この違いは、自動車は人間の「知」で作られたものであるからだ。自然には無かったものを人間が作り出した以上、人間が言葉で伝えることができるはずである。

「知っていること」には自転車のような「体験を通して習得する」ものと、自動車の運転のように「学習して知る」ものがあるということ。

体験知から学習知へ

言葉を「知っている」から読み書きができるが、言葉そのものの内容を示せるかというと、文法や語彙をいくら列挙しても伝えることはできない。では、言葉は自転車の乗り方同様に「学んで知る」ことはできないのかというと、そこには学ぶ意味と価値がある。

言葉を学ぶ意味と価値は、言葉のさらなる有効な使用法によって伝える力に差がついてくるからである。

言葉を学ぶ

自転車の乗り方と自動車の乗り方の違いは、マニュアル化できるかによる。言葉は、その例でいうなら「自転車」的でもあり「自動車」的でもあるといえる。そこで、これから言葉を「マニュアル」を通して知るべきことを学んでいく。

言葉は学びの条件

言葉を学ぶということは、あらゆる学びにおいて重大な役割を持つ。体験知の中には言葉を必要としないことが多く含まれている。体験でしか学べないことは体で覚える以外にない。

学習知は、割り切って体験知を切り捨てて言葉にできるものを対象にする。言葉を学ぶ意図は、学習知を明白にするために言葉の使い方を学ぶことである。

論理とは何か

学んで知った「知」を明白に言い表すために言葉の使い方を論じる。それが「論理」であるという意味を考える。論理とは、言葉に筋道を立てて見通しをよくし、分かりやすくすることである。

言葉の分かりやすさ

通常、言葉は他人に向けて発せられる。その相手に言葉が通じることを前提とするが、それを分かりやすくするためには言葉の使い方を定めようとするものが「論理」ということになる。

論理は普遍性

「論理」とは言葉を分かりやすくすることであるとするなら時や場所をわきまえて使い分ける必要はなくなる。「いつ」でも「誰」でも「どこ」でも通じるようにするということであるなら、すなわち普遍性を求めるということである。

ただし、言葉の普遍性とは、言葉の一般的な目標ではない。

言葉と論理

言葉の使い方としての普遍性には、わかりやすく誤解のないように相手に伝えるということにおいて「論理的」であることは、言葉を使う上で内在している基本的ルールでもあるといえる。

まとめ

ここでいう「言葉」の論理的な使い方というのは、論理的な場面に限定される。文書でいうなら「論文」のようなものであり、人前でしゃべるなら「講義」とか「プレゼンテーション」のような場面に限定される。

元来、言葉には感情とか情緒が含まれ、一つの言葉が多義性を持つような語彙も少なからずある。通常の会話や文章では、そこに「余韻」のような味わいを含ませることが一般的である。

この「余韻」や「情緒」を多く含ませることができるのが日本語の特徴であるが、「論文」や「講演」においては、意図する内容を正確に伝えるうえでは、極力そぎ落とすことが「論理的」な言葉の使い方となる。

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