「日本における死刑」を考える
読売新聞の2022年10月22日の記事に「死刑執行2日前「姉さん、もう泣かんで」67年前の音声…原告「当日告知は違憲」と主張」と言うのを見つけて読みました。YouTubeで、その音声も公開されています。
死刑は刑法11条に定められています。刑事訴訟法第475条では判決確定から6か月以内に「これを」しなければならないとしています。
このような音声があることの違法性もさることながら、公開されることの違法性もどうなのかはわかりませんが、生々しい話ではあります。
動画はともかく記事は、死刑執行を当日の告知で突然執行されることの違法性を問う裁判について弁論が10月21日に行われたことを取り上げて、かつて(1970年代ころまで)は前日までに告知がされて肉親と最後のお別れをしていたとのことです。
そもそも、死刑については国民の80%が必要と思っているというような調査もありますが、多くの国民は死刑になることも、死刑になるような犯罪の被害者遺族になることもなく人生を全うするわけで、死刑が必要であろうがなかろうが、全くの第三者でしかありません。
存置の立場
人を殺した者は、自らの生命をもって罪を償うべきである
死刑制度の威嚇力は犯罪抑止に必要
被害者・遺族の心情からすれば死刑制度は必要
こんなところでしょうか。死刑になるような犯罪を犯すときに、「死刑」ならやめて「無期懲役」ならやるのかと言うと、あまり抑止には役に立っている気がしません。
つまりは、被害者の代わりに「報復」を国が行うのが死刑だと言えそうです。明治6年2月7日に「復讐禁止令」を布告しています。といっても敵討ちは武士にだけ許されていたようですが、ともかく復讐することを禁じたわけです。
廃止の立場
野蛮であり残酷であるから廃止すべき
国際的潮流
憲法第36条が絶対的に禁止する「残虐な刑罰」
誤判の可能性がある
抑止する効果があるか否かは疑わしい
被害者・遺族に被害弁償をさせ、生涯罪を償わせるべき
更生の可能性
野蛮・残虐かどうかは法律解釈で決めることで情緒的に決めることではないと思います。耳を切り下したり鼻をそぎおとしたりしても生かす方が倫理的かと言えば、何とも言えないところです。
罪を償わせるといってもお金で償うことはできません。となるとどうやって償わせるのかは不明です。毎日拷問するようなことで遺族が慰留されるわけでもないでしょうし、墓参りもしてほしくはないでしょう。
更生の可能性はおそらく十分あるとは思いますが、それは被害者・遺族の感情を無視した論点だと思います。
国際的潮流だからと言うのはまったく理由にはなりません。
wikiを調べてみました。とても長い記述があります。随分後ろの方に「歴代法務大臣の死刑執行命令数」と言う欄があって、一番多く失効しているのが上川陽子大臣の15人(オウム真理教関係が13人)、次が鳩山邦夫大臣の13人、谷垣禎一大臣の11人が多いほうで、大臣就任中「0」人と言う大臣も多くいます。
刑事訴訟法では「第475条 死刑の執行は、法務大臣の命令」によるとされており、最高裁の決定に対して行政の長である法務大臣が命じるというのも、司法が独立していないようで奇異な感じです。政治家は人気商売だから、きっとあまり関わりたくはないはずです。
上川陽子大臣がオウム真理教の死刑囚を一挙に7人の処刑を命じた執行の前日に、自民党内でパーティーに参加していたようで、参加していた片山さつき議員によれば楽しいパーティーだったようです。
法務大臣として法務省から上がって来た書類に事務的に対応しただけなのかは不明ですが、こうした不遜な対応が起こり得ると言う意味で「野蛮・残虐」な気がします。
「絞首」刑とは言いながら実際には「縊首」です。ロープを首にかけて落とすことで自己の体重で首を閉塞させるわけですが、ロープの長さは、身長や体重に合わせる必要があります。短ければ苦しむでしょうし、長すぎれば首が切れてしまうことも懸念され、これだと憲法に触れて(残虐な刑罰)しまいます。
つまり、死刑を執行する施設にはロープの長さに関する最適解があるわけで、そんなことを考えると「非情」なことではあります。
まとめ
最近の自分は死刑「廃止」派です。
自分の考えなど全く持って侏儒の極みですが、「終身拘置」とし懲役受刑者の刑務作業に該当する時間を正座して読書や姿勢を崩すことを許さず生涯拘禁することで、自分の犯した犯罪と向き合わせるのがいいのではないかと思っています。
いずれまた、考えは変わるでしょうけれど、いまのところの到達点です。