「西洋紀聞」における新井白石とシドッチ
260年の間、人口100万人の大都市だった江戸(東京)の地下にトンネルを掘れば墓地に当たることは少なくない。その結果、景気が良くなると人骨の収蔵が増えるという。
文京区小日向1丁目23番地:丸ノ内線茗荷谷のそば。宗門改役の井上筑後守政重の下屋敷があったところ。井上筑後守政重はキリスト教を棄教させる名人だった。その地から2014年に3体の遺骨が掘り出された。
遺骨は、シドッティと、彼の世話をした長助・はるという老夫婦であると推定されている。
1708年、屋久島にジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(シドッチ)が現れ長崎から江戸に送られ、切支丹屋敷に送られ新井白石からの尋問を4回にわたって直接受けた記録、「西洋紀聞」が残されている。
白石もシドッチもお互いの学識を尊重しあっていた。白石が尋問を通して書いた「西洋紀聞」を通して、後には幕府の蘭学容認へとつながっていく。シドッチの尋問を終えた白石は、本国送還を上申しているが幕府は幽閉を決める。
しかし、世話をしていた長助とはるがシドッチに洗礼を受けたことを告白することで3人は地下牢に監禁され、そこで死ぬことになる。
この遺骨を国立科学博物館でDNA調査などを行い、シドッティであることが、ほぼ確定された。
顔面の特徴点に皮膚の厚さを示すピンを打ち表情筋を復元する。年齢を想定し粘土で表面を作る。「西洋紀聞」を参考に髪をクロにし基本的なイタリア人から目の色、皮膚の色を復元した。
この顔のシドッティと新井白石は4回にわたって対面し、お互いの学識を尊重しあっていたという。新井白石が書き残した「西洋紀聞」を通して、後には幕府の蘭学容認へとつながっていくことになる。
新井白石(1657-1725)
一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
wikipedia
父・正済は上総久留里藩に仕官。子供のころか異才を発揮し、藩主から可愛がられるが、1677年に土屋家から追われる。1683年に大老・堀田正俊に使えるが堀田正俊は殿中で稲葉正休に刺殺され、堀田家は改易され、自ら退いて浪人となる。
いくつか推挙されるものの辞退した。1686年に木下順庵に入門することとなる。順庵は甲府徳川家に推挙する。徳川綱豊は綱吉から疎んじられていたが、綱吉に男児の出生がなく綱豊が将軍となり徳川家宣と名を改めた。
そこで新井白石が林家を抑えて間部詮房と将軍家宣の側近となる。正徳元年には1000石となるも、無役であったため御用部屋には入れず、家宣が間部に諮問し、それを間部が白石に伝えるという形をとった。
白石の政策は、旧来の悪弊を正す理にかなったものであったが、既得権益に守られていた幕閣とは齟齬をきたし、軋轢となる。また、貨幣改鋳に関して荻原重信と対立し、結果として白石の政策は失敗となる。
家宣が没すると子の家継の下で間部と政権を担当したが、家継が夭逝して8代将軍に徳川吉宗が就くと、白石は失脚、公的な政治活動から退いた。