公文書にある問題とは?

横畠祐介内閣法制局長官(当時)は、「記録係として参加したわけではない」として集団的自衛権行使容認の閣議決定について与党幹部との協議を一切記録していなかったことを正当化する説明をした。

これまで日本国憲法下では集団的自衛権を「違憲」として認めてこなかった。公文書管理法では経緯も含めた意思決定に至る過程を、あとで検証できるようにするために文書を残さなければならないとしている。

菅義偉官房長官、河野太郎行政改革担当大臣(ふたりとも当時)は適正な文書管理であり法制局には何らの問題も見つからないとして野党の要求を退けた。

建前を言うなら、公文書とは歴史的事実の記録であり、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源であり、主権者たる国民が主体的に利用することができなければ権力の暴走を監視することすらできなくなる。

特に自民党と霞が関に巣食う吏僚達は、記録を残すことを極端に嫌がり、それを助長させたのが安倍政権であり菅官房長官であった。本来であれば仕事の記録として文書を作成するのではなく、ともすれば文書を作成することが仕事になっているはずの吏僚が、文書を作成しなければ仕事をしていないことと等価になる。

つまり、残すと都合が悪いことがあるから記録を残さないのであって、それを容認・推奨・率先したのが安倍政権であり菅官房長官であったといえる。

思い出せば、築地から豊洲に市場を移転させるとき、地下にあるはずの盛土が施工されていないことが発覚したことがあった。変更に関する内部資料が無く、変更の決定経緯が不明であり、建設中の建物に関する文書が廃棄されるはずもなく決裁を受けずに設計仕様が変更されるはずもない。

さらに有識者による「技術会議」の議事録が改ざんされ都からの提案だったものが、技術会議からの提言を受けたと書き換えられていた。記録も設計図書もなく、建築物が勝手に作り変えられるはずはないが、改ざんの「犯人」を追及されずにうやむやになった。

破棄されていると答弁した日報が見つかったこともあった。スーダンPKOの日報に政府として不都合なことが記載されていたため、「廃棄したので不存在」であるとした。しかし、内部告発によって存在していたことが判明した。情報公開法、自衛隊法職務遂行義務違反になる事案であった。

当時の稲田防衛大臣は隠ぺいはなかったと言ったものの隠ぺいに失敗をしていた。つまり、政治家が国民に対して大ウソをついたことがばれた事案であった。

情報公開請求が起き、あわてて内容を精査してから廃棄することは情報公開請求に対する冒とくである。安倍内閣において「桜を見る会」で共産党から請求があった日に参加者名簿をシュレッダーにかけた事案もあった。

これらは全て故安倍晋三元内閣総理大臣において発生していた。安倍内閣特有の事案だったのか、あるいは度が過ぎただけで他の自民党内閣においても同様なのかは浅学にして不明である。加計学園問題では菅官房長官が「怪文書」として処理した事案があった。この事案では当時の文部事務次官であった前川喜平さんの私的行動を公安が密偵をして読売新聞にリークしたという戦前のような恐ろしいことも起きた。

本来、メディアは権力の悪事を暴くべきところ、権力の手先となって都合の悪い情報を消すことができなくなると、その情報信者の信用を失墜させようと刷ることに手を貸すなど、報道としての矜持がないことをまざまざと見せつけていた。

役人や議員は税金から俸給をもらっているという意味で、公僕である。その公僕が公務で作成する文書(メモも含む)は全て国の資産である。よって軽微だからと言って軽々に廃棄できない仕組みを作るべきである。それと、公文書の扱いに明確な違反があった場合の罰則(懲役を含み、3年以下でも執行猶予を認めないなど)を厳密にしなければ安倍政権でなくとも、同じ吏僚が居続けている限り、同じことが悪質さを増して続けられる。

吏僚が悪質さを増していくのは、社会主義国家に共通することである。日本は名目上、民主主義国家となっているが実質は

吏僚が悪質さを増していくのは、社会主義国家に共通することである。日本は名目上、民主主義国家となっているが実質は「吏僚主義」となっている。その原因は、あまりに政治の質が劣化しているからだ。

隠ぺい、改ざんが横行していく過程で民主主義は劣化していった結果が今の安倍派の裏金問題にも見られるような体たらくである。

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