「エタ源流考」を青空文庫で読んでみた
図書館から「橋のない川」を借りてきました。本は7巻まである大作です。全編に「エタ」が書かれていますが、「エタ」が差別されていることは分かったのですが、そもそも「エタ」とは何か? かくも凄惨な差別を受けなければならな理由は何なのかについての記述は無いように思います。
そこでちょっと調べると青空文庫に「エタ源流考」という作品があったので目を通してみました。書いた人は「喜田貞吉」と言う人で明治4年生まれで昭和14年に没しています。東京大学で博士号をとり、教科書に南朝と北朝を併記して休職処分を受けました。当時は薩長の色が濃かったせいもあって南朝が正当だとする考えが主流だったようです。
後醍醐天皇も、自分の子孫に皇位を継承させないことを誓約していたのですから、どっちが正当であるかで白黒つけるのではなく、どっちも正当とする考えがあることを伝え、考えさせることの方が教育的観点においてはるかに知的と思いますが、こうした弾圧を、さも当たり前のようにしていた時代だったわけです。
さて本論の「エタ」ですが、喜田さんはまず「穢多」という卑字は使うべきではないと主張します。少なくとも明治4年に廃止したはずであるので、存在すらしていてはいけないはずであるといいますが、歴史を説くうえで触れなければならない場合は「エタ」として表現するとのことです。
「エタ」は日本民族と異なるところは寸分としてないわけで、たまたま運の悪い道筋を通ってしまっただけのこと。関西に多く、九州南部や北海道には元来存在しておらず、明治以降に部落単位で移住した例はあるものの「橋のない川」のような差別はされていないとし、東京ではすでに忘れられている(大正8年当時)。奥羽の北部などではわずかな存在しか認められていない。
話は長くなるので端折っていくと江戸時代には江戸に弾左衛門がいたが、源流を辿っていくと都市機能は所詮、京都なので源流はきっと京都だろうとしています。「吉祥院南小島」と書かれているものがあるようです。桂川と鴨川が合流するあたりの村落のようで「佐比里(さいのさと)」とは「賽の河原」の俗伝のある場所のことだそうです。仁明天皇の時代に髑髏5千5百を焼いたとの記事が「続日本紀」に書かれているとのことです。
鷹のエサを捕る雑戸がいたのだそうですが、その当時は賤民ではなかったのですが、鷹司が廃止されることで職を失い、桂川佐比の地で葬送(葬者)などの仕事に従事し、罪人の処分を扱ったり汚穢を掃うことを職業としたのではないかと喜田さんは想像しています。
後世(江戸時代か)では「河原者」といえば非人のことで、特に歌舞伎役者を賤しんで呼ぶようになったそうですが、その昔(室町時代か)はエタと非人に区別はなかったとのこと。「当時に於いては屠児すなわち獣肉を扱う者をも、河原に住んで賤業に従事した河原者をも、共にエタと呼んでいた」とあります。
と、まだまだ続きますが、この書は「源流」を辿るのが目的のようなので、これはしかたがないですし、かつ、これほど詳しく調べているものも始めて目にしました。
江戸時代までは住み分けがされていて、明治になってそこが曖昧になったことが「凄惨」な差別につながったように思いますが、根拠はありません。
ちなみに、明治4年に「解放令」が出され「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」としています。
まとめ
「不幸にして中世以来大いに世人から嫌忌せられる事になったが為に、おのずからその従業者が賤まれ、したがって人から嫌がられる職業のものが多くこれに流れ込み、さらに人から嫌がられる多くの職業を賦課せられ、遂に後世(明治期のことか)見る様な、甚だしい圧迫を被るの気の毒なる境遇にも立ち至った」としています。
まして明治になって肉を食い、皮(靴やカバン)を使うようになっているにもかかわらず、「エタ」と称して差別する理由は消滅すべきことであると説いています。
「穢れ」と言う言葉は、仏教と切り離すことはできず、仁明天皇の時代の記録にも登場しているようですが、仁明は桓武-平城-嵯峨-淳和に続く天皇で、都が京都に移って20年くらいのころの天皇です。仏教が入ってからおよそ250年。
そして藤原は冬嗣の時代になり、藤原氏の隆盛が始まるあたりになります。貴族が使用する武具などにも皮が多用されるようになっていく時代でもあり、「エタ」としての職業が定着することは時代の理に適っていたわけですが、皮の加工は死穢に直接的なつながりがあったものの凄惨な差別をしなければならない理由はなかったと思います。
では、仮に明治から凄惨な差別をしていったとするなら、その理由はいまのところは不明です。機会があったら勉強してみますが、「陰湿さ」「凄惨さ」を許容する土壌には「民族性」も寄与しているのでしょうか。