パラダイムシフトによる昭和型組織の末路
不祥事の背景 その1
大企業で不祥事が続発しています。その理由の1つとしてあげられるのが「官僚的組織管理」にあるという指摘がありました。
「昭和企業」は長らく、「終身雇用」と「年功序列」を基本の雇用形態としてきたため幹部メンバーの入れ替わりが少なく、年功序列を基本とした組織ピラミッドは、実力(能力)主義とはかけ離れた「上へ倣え」の風土が形成されます。
役所は倒産することがないので、明治から今に至るまで「終身雇用」と「年功序列」で組織が作り上げられていますが、効率や能率や売り上げとは全く無縁の組織なのです。民間の企業でも、大企業となると組織は「官僚」的となりがちになります。
なぜなら、組織を管理している人たちこそが「昭和」時代に功績のあった人たちであるからです。単に階段を上がってきただけのことですが、それがさも自己の能力と過信することから無用な「権力行使」をし、組織を棄損する結果を生み出すことが少なくないことに気づけません。
不祥事が漏れ伝わる背景の多くは「内部告発」にあるようです。組織内部の「良識」が、権力者の古臭い「専横」と「不純・腐敗」を見逃せないという動機なのか、はたまた冷や飯を食わされている意趣遺恨の発露なのかはわかりませんが、平然と不正を強要する昭和型組織管理の限界が出だしていると言えるでしょう。
そのことは、不正や不祥事だけに限らず、組織運営全般に言えます。
よく目にする典型的なものが「政治」と「官僚機構」です。戦前生まれが君臨しているような政治では、必然として新時代の国家運営などできようはずもありません。そのうえ、一応、子供のころから優秀であることを自他ともに認める官僚が政治家に額づき忖度することから、挙句には自殺者まで出したり、「認諾」とやらで国家が賠償を支払う羽目にまでなっています。
重要なポイントは、想像以上のスピードでパラダイムが変化していることをキャッチするだけでは後追いでしかなく、日本発でパラダイムを変えていかなければ少子高齢社会を乗り切れるはずもありません。
不祥事の背景 その2
コンプライアンスの軽視をあげることができます。最近では回転ずしで仕入れ価格を転職先の企業に漏らしたということで社長が逮捕されています。
今後、ジョブ型雇用が増えると人材(スタッフ側の)の流動化が盛んになってきます。その場合、前職で知り得た知識や情報を持ち出すことは当然、考えられることであって、転職先でも、そうしたことを期待していることもあるでしょう。
しかし、そこには「コンプライアンス」が立ちはだかります。「コンプライアンス」とは「法令順守」「企業倫理」「社会規範」などが含まれる用語のようですが、「コンプライアンス」という言葉には「きれいごと」という文字もちらつきます。
法令違反は逮捕・立件されてしかるべきですが、「倫理」や「規範」となると、もし「コンプライアンス違反」が発生した時のよりどころは社内規則として「明文化」されているかが重要なポイントになるでしょう。
過剰な競争や出世欲によって、自己の規範が変容することが「コンプライアンス」軽視の一番の原因であることは間違いのないところではあります。
森友学園決裁文書改ざん事件に関わった人たちで心を痛めていない人がいるのであれば、それは昭和型組織機構の勝利であって、それだけ社会規範の劣化でもあることになります。
元財務局長は本来であれば事務次官になった可能性も高かったのに上からの違法な依頼(命令)を断ることができずに「人倫」にもとることを現地の財務局に命じたため民事で訴えられることとなりました。
認諾しないところを見れば勝訴することが間違いのないところだからなのでしょうけれど、これから先の人生において人倫にもとる行いをしたという贖罪を背負って生きていくことになってしまいました。「倫理」や「規範」を軽視するというのも日本の「昭和型経営」の側面と言えそうです。
たとえば(昭和型の事例)
元中小企業庁長官が「コンパニオンと混浴接待」「1100万円使い込み」騒動
同社グループのコンプライアンス規定にある「会社の信用を傷つけ、不名誉となる行為」に該当するとの見解において全面対決をするとのことですが、コンプライアンス規定が抽象的すぎるため「解釈」の余地を生んでいます。
混浴で接待することが「会社の信用を傷つけ、不名誉となる行為」であるかよりも、接待に対する「目的」「成果」「予算」などについて社長と言えど、事前の承認行為を規定しておけばいいだけのことでした。
天下りと言い、混浴接待と言い、まさに昭和型組織の典型と言える事例です。
危険運転致死傷罪が制定されたことで交通事犯が激減しているように、コンプライアンス違反に対して2度と立ち上がれないような厳罰をもって臨むことも「昭和型経営」からの脱却において必要な気がします。