七十路を「ななそじ」と読む

いままで「70代が見る景色」としていましたが、風情を重んじて「七十路」と改めました。

あっけなく 七十路となる 青畳

この俳句は「岡崎えい」による。「えい」は明治26年生まれ。雙葉女学校に通うも中退した模様。銀座2丁目で酒場「おかざき」の女将。永井荷風、井伏鱒二、泉鏡花、石川淳、堀口大学、久保田万太郎らが通った。

永井荷風は、岡崎えんの和歌や俳句を取り上げているし、断腸亭日乗にも岡崎えんの記述もある。

「七十路」を調べると紀貫之(土佐日記)などでも使われており、古式豊かな年齢の読み方である。

ちなみに「九十路」は「くそじ」ではなく「ここのそじ」と読むようで、なんと「古事記」「続後撰和歌集」などにも使われている。知らぬは現代人ばかり。

90まで生きれば「ここのそじ」と呼ぶとは、千年以上も昔に90歳以上まで生きる人もいたということになる。藤原道長の長女で一条天皇の皇后。後一条天皇、後朱雀天皇の母である藤原彰子は86年の人生だった。

岡崎えいの母は三十間掘の船宿「寿々本」の芸妓・岡崎かめ。父は伯爵・大木喬任。大木喬任は佐賀の人で大隈・副島・江藤らとともに出仕し、元老院議長や枢密院議長などを歴任しているが、岡崎えいは娘であるとwikiにも書かれているが、大木が岡崎えいを保護・養育したような記述は見当たらない。

さびしさを 支へて釣りし 蚊帳の月

空襲で銀座の「おかざき」は消失し、その後は家政婦などをして糊口をしのいだが、喀血し1955年から生活保護を受け小岩の老人ホームに入居した。

1963年11月26日、同室の老女にお菓子を買うため「帯」を質草に入れて300円に代え、帰りの京成江戸川ー小岩間の踏切で準急電車にはねられて即死。70歳だった。

事故か自死かは不明。

常に思うのは、「明治」といえば渋沢だとか福沢など、偉人によって作られたような偉人歴史観が君臨しているが、飛鳥天平奈良平安から今に至るまでも、時代は圧倒的に庶民の悲喜こもごもによって造られている。ただ、ひたすら無名なだけ。

さざれ石をいくら集めても巌にはならないし、チリがいくら積っても山にはならないが、地殻が変動すれば山になる。しかし、山に押し上げている地層がなければ富士山だってあの形にはならない。

時代は、塵や芥やさざれ石があればこそ、変革のエネルギーを伝えることができ、たまたまの拍子で表出した部分が偉人、英雄、豪傑になるだけでしかない。庶民が登場しない歴史なんて、つまらないものだ。