世界史の悪党、イギリスの蛮行
イギリスは太陽が沈まない国だった。全盛期のイギリスはヨーロッパ、アフリカ、中東、インド、アジア、アメリカ、オーストラリア、カナダと世界中を影響下においていた。
一説では、地球上の4分の1を支配下に置いていたともいわれる。これを可能にしたのがイギリスの海軍であった。
残虐と言えば「ドイツ」と言われているけれど、植民地での反乱を鎮圧したあとの反乱者への処罰はドイツと肩を並べるほどであった。
また、アフリカから奴隷を北米や南米に商品として売っていた。奴隷制度を1830年に廃止したのは決して人道上のことでなく、単に輸出する黒人が内陸部にまで入らなければ捕まえることができずコスト高になったため止めたのち、あたかも人道上の配慮でやめたように装っているだけのことである。
イギリスの植民地で最も価値があったのがインドであった。インドは1877年からイギリスの植民地とされ、それ以来のインド国民は飢饉で苦しんだ。イギリスはインドの肥沃な大地を輸出用の作物を栽培させ、それを輸出した。インドが穀物を手に入れるためにはインドで生産したにもかかわらずイギリスから買わなければならなかった。
結局、イギリスの植民地支配が終わるまで、インドは飢饉に苦しんだ。1943年、「人為的」に起きたベンガル飢饉では300万人が餓死し、英植民地インドにおける暗黒の歴史となっている。
インドの飢饉を救済するべく米国とオーストラリアが援助を申し出ても、拒否したのはチャーチルによるインド人に対する人種的嫌悪感があったとされている。「飢饉はインド人自らが引き起こしたもので、ウサギのように繁殖するからだ」と罵ったと記録されている。
ガンジーに対してもて「半裸の聖者を気取った弁護士」と愚弄し、「なぜガンジーはまだ死んでいないのか」などと言っている。
インドの歴史として飢饉があまり取り上げられないのは、インド社会の中流の人たちはイギリスに協力してきたという罪の意識があって歴史から消しているとのこと。1919年4月13日、インドのアムリットサル市で非武装のインド人市民に対してイギリス領インド帝国軍が無差別射撃をして1500人以上の死傷者をだしたものの8ヶ月も隠ぺいしていた。
ケニアでも同様のことを行い、過酷な労働をさせ、150万人以上を収容所で拷問や虐待していた。アフリカの内陸部に資源が豊富なことが分かるとヨーロッパ諸国の取り合いがはじまり、民族など関係なく分割したため、いまでも民族闘争が絶えない原因となっている。
国境が直線になっている部分なども、ヨーロッパ各国の勝手な利権分配の結果でしかない。いまさら人道や民主主義を標榜しても、100年前の記憶を易々と消し去って、欧米追従しているのは日本くらいのものである。
アイルランドでも同様のことが起きているが、話が長くなるので割愛するけれど、植民地主義という考え方の根底にあるものは強い国が弱い国を支配することで、お金のある国がお金のない国の労働力を安く使うことで、グローバリズムという考えも体の良い植民地主義と本質に大きな差はない。