大鏡:其02《帝紀-文徳天皇》
第55代 文徳天皇(827-857)
文徳天皇は仁明天皇の第一皇子である。母は藤原順子で、藤原冬嗣の息女であった。
842年(承和9年)に元服し、同じ年に皇太子になる。このとき16歳。
文徳天皇は更衣の后・静子所生の第一皇子の惟喬親王を鍾愛し立太子を期待したが、良房の圧力で明子が生んだ惟仁(後の清和天皇)を皇太子とせざるを得なかった
- 補足
桓武天皇の3人の息子が天皇になっている。平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇。
文徳天皇は、嵯峨天皇の息子の仁明天皇の皇子として生まれている。
淳和天皇の息子の第二皇子の恒貞親王を退けて皇太子になっている。
藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子の信任を得て急速に台頭し始めていた。良房の妹順子が仁明天皇の中宮となり、その間に道康親王(後の文徳天皇)が生まれると、良房は道康親王の皇位継承を望んだ。
「承和の乱」は嵯峨天皇、淳和天皇が崩御すると皇太子(恒貞親王:淳和天皇の第2皇子)に仕える伴健岑とその盟友橘逸勢は藤原氏による危険から恒貞親王を守るために東国へ避難させようとして発覚し、廃太子される事件。
橘逸勢
「延暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。中国語が苦手で、語学の壁のために唐の学校で自由に勉強ができぬと嘆いている。おかげで語学の負担の少ない琴と書を学ぶことになり、大同元年(806年)の帰国後はそれらの第一人者となった」wiki
業平との情交
藤原順子は19歳で文徳天皇を生み立后した。この方を「五条の后」と呼ぶ。在原業平が二条の后(藤原高子)のもとへ通っていたのが五条の后の家であった。
- 補足
藤原一門の政治的地盤の起点となるのが文徳天皇になる。
藤原冬嗣の娘・順子が仁明天皇の后となり文徳天皇を生むことから藤原一門の政治的地盤が堅固なものとなっていく。