少年犯罪における加害少年の未来とは
2021年3月に北海道旭川市で女子中学生が遺体で見つかるという痛ましい悲劇が起こりました。「いじめ」が原因とされる自殺のようです。14歳だから「いじめ」をした側もおそらく14歳前後くらいなのでしょう。
学校は例によって「いじめ」ではなく「悪ふざけの度が過ぎた」だけだという認識で逃げ切ろうとしています。
被害少女と学校のやり取りで教頭先生は(手記から)「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか」と言ったとか。
被害者遺族の手記からメディアが取り上げているので前後関係や事実関係は不明です。こういうケースでは切り取りが普通に行われるのが昨今のメディアですから、あえて扇情的に書く傾向は否定できません。
どのみちメディアにとっては注目を集められればいいだけのことで、世の中に正義を糺していこうなどという気概は皆無の連中ですから。
ここで、教頭のセリフを考えてみようと思います。
一人の被害者の未来と、10人の加害者の未来とどっちが大切か
「社会」は「当事者」と「第三者」で構成されています。社会が当事者感情だけで構成されているなら、大きな社会を構成することはできません。「第三者」と言うと無責任な感じがしますが、この無責任さがショックアブソーバーの役割をするゆえに社会は過激にならずに安定できます。
「当事者感情」で考えれば加害少年を許せるはずもなく、仕返しでもしなければ収まりがつきませんが、第三者的に距離を置いて考えてみると加害少年10人に代償として少年院に送れば被害者感情が収まるのかということになります。
加害少年を少年院に送り込むことで彼らが完璧に反省をし、残りの人生を正義に満ち溢れた生き方をしてくれるなら、それなりに価値のあることと言えるでしょうが、少年院に行くことで犯罪予備軍になり、その後の人生を社会に害毒を流し続けるなら、高い「社会コスト」を払うこととなります。
少年犯罪は、少年ゆえに思考が未熟で責任に対する能力も希薄であるとする観点もありますが、残りの人生の長さを考えて犯罪者としての烙印を押すことの社会コストをも斟酌すべきとする考え方があってしかるべきではあります。
この事件は9月20日に最終報告書が出され、「いじめがどの程度関係していたか、それが明らかにできるほどの情報を得ることができなかった」という結論で終わりました。
日本的な終わり方ではありますが、この手の事件の第三者委員会に任命される弁護士も費用の割には手間が多くかかるのでたいへんなようで、ここにも「正義」の問題が立ちはだかります。
パワハラやいじめや借金や差別がない世界で「自殺」をすることもあるでしょうが、それはまさに「曰く不可解」なことで、大方は因果関係があるはずです。
同時に加害少年の犯罪性以上に、教職員の「職専念義務違反」を厳格にとらえるべきと思います。教職員の職務専念が十全になされていれば加害少年も被害少年も出さないですんだかもしれないという視点を持つべきでしょう。