岡倉天心の痛快な一言

岡倉が横山大観や菱田春草と、和装でボストンの街を歩いていたら白人からこのようなことを言われた。

“What sort of ʻneseʼ are you people?  Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?”

おまえたちは「何ニーズ」だ? チャイニーズかジャパニーズか、それともジャヴァニーズ[ジャワ人]か?

そこで、岡倉天心は、

“We are Japanese gentlemen. But what kind of ʻkeyʼ are you?  Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?”

私たちは日本の紳士だ。ところで、そう言うあなたは「何キー」だ? ヤンキーか、ドンキー[ロバ。「とんま」の意も]か、それともモンキーか

岡倉天心は文久2(1863)年- 大正2(1913)年の人で、東京美術学校の設立に貢献する。

9歳の時、妹てふを出産した母このが産褥熱で死去する。その葬儀が行われた長延寺(現・オランダ領事館跡)に預けられ、そこで漢籍を学び、横浜居留地に宣教師ジェームス・バラが開いた英語塾で英語も学んだ。

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ということで、英語はあの当時にして達者であった。ちなみに廃仏毀釈で職を失っていた高村光雲を芸大の彫刻科の教授としたのも岡倉天心であったという。

近代美術館で初めて高村光雲の「老猿」を見たときはいたく感動した(後に国立博物館で見たときはそれほどでもなかったけど)。

姫路城とか弘前城、松本城、彦根城、熊本城などと、江戸時代のお城もわずかに原型を残しているけれど大方は壊されてしまっている。明治6年に「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」、いわゆる廃城令により廃却されてしまった。

お城の多くは県庁所在地にあったとのことであるが、千葉市は幕府の直轄領であり佐倉のほうに堀田さんのお城があったけれど、やはり壊されてしまった。佐倉城は幕末の大老・堀田正睦のお城だったけれど、後に軍隊の駐屯所にされたりして原型をうかがうこともできない。いまでこそ、歴史博物館があるけれど、お城がそのまま残っていれば相当な観光資源となっていたはず。

政府にはそれなりの理由はあったのだろうけれど、旧弊を破壊することが西洋化の第一歩として認識されていたのかもしれない。お城が反政府の砦になったのは明治10年の西南戦争ぐらいで、明治6年の時代背景は調べてみなければわかりません。

いまとなれば「レトロ」というだけで、人を集められる資源になったのに残念なことだ。タリバンがバーミヤンの遺跡を壊したのと次元は違うけれど、やったことは歴史への反逆という意味では同じレベル。