後藤新平から見る明治という時代

いい話だが長すぎる

何が言いたいのか最後まで読んだら「後藤新平」の事ではなく、「人材発掘」と「英明な人材の流動」。その前提とするべきは、幕末を生きた人間たちの「人間力」と言える。

逆に、このすべてが欠如しているのが、令和の日本。それは政治だけではなく企業においても同様のこととなっている。

そこを指摘して、どうすれば改善できるかの考察とするべきであった。

後藤新平にまつわる人間たち

後藤新平は1857(安政4)年に生まれて 1929(昭和4)年に亡くなっている。台湾総督府民政長官。南満州鉄道(満鉄)初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長などを歴任。

東京市長時代に関東大震災にあい、帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画の立案・推進にも従事。

高野長英とは遠縁であった。

廃藩置県後、胆沢県大参事であった安場保和に認められ、後の海軍大将・斎藤実(この人も仙台藩水沢城下の藩士)とともに13歳で書生として引き立てられ、県庁に勤務した。

安場保和の情報は必要か?

安場保和は1869(明治2)年に 胆沢県大参事になり、後藤新平(当時12歳)ら地元の俊英な少年5名を見い出し、県庁給仕とする。これが後藤新平にとって歴史に名を遺す起点となる。

長與專齋の情報は必要か?

ちなみに、長與專齋の三男の長與又郎は夏目漱石の主治医。どうでもいい情報。

長與專齋は1838(天保9)年に生まれて 1902(明治35)年に死去している。1861(文久元)に長崎でオランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修めている。安場保和らとともに岩倉使節団として米欧を視察している。

石黒忠悳の情報は必要か?

石黒忠悳(ただのり)は1845(弘化2)年に生まれ 1941(昭和16)年(敗戦の4年前)に96歳で亡くなっている。幕府医学所を卒業。幕府が倒れ医学所も解散し医学所の後身である大学東校(東京大学医学部の前身)に勤める。1871年、松本良順の勧めで草創期の軍医となった。

後藤新平の才能を見出した。後ろ盾となり、日清戦争の検疫事業を後藤とすることを児玉源太郎に提案。検疫事業の成果により後藤は内務省衛生局長に復職し、また児玉に認められたことで児玉の台湾総督の下で後藤が台湾総督府民政長官に起用されるきっかけとなる。

明治期の人材

明治期を作った幕末の人々は、人材を見つけて引き上げるのに、藩などの派閥意識をあまり頓着せず優秀な人材を起用している。

会津出身で会津戦争負けて陸奥国斗南(青森県むつ市)へ移住させられた少年の柴五郎を引き上げたのは野田豁通(ひろみち)で熊本藩士。弘前県の県庁を青森に移して青森県とした。この野田が育てたのが後の陸軍大将の柴五郎

藩閥とか派閥にこだわらず、幕末の人々には優秀な人材を見極める力があり、育てるという時代でもあった。今の政治とは根本的に異なっている。派閥で執拗に固まったのは長州くらいだったのかも。

ポストに対する執着心

起用された人材においては、与えられたポストに執着を見せず、何か事があれば、ためらうことなくポストを放棄している。起用する側にもそれなりの度量があったことが、新しい時代を作っている。

この激動の時代において、優秀な人間こそが流動していた。人材が流動していたから明治ができたのではなく、偉大な人材ゆえに流動する先々において偉業を成し遂げ、その成果において流動することを求められるという循環があったといえる。

翻って現代は全く新しい時代を作る気概と仕組みに欠けていることが、日本の停滞を生み出している。

権力を持つ者に、英明な人物を見つけ、自己の責任で引き上げるだけの先見の明もなく、また、英傑が引き上げようにも引き揚げるべき英明な人材もいない。

雇用する側には人物を見抜く力がなく、雇用される側には俊英な士がいない。と、思いきや石丸伸二さんの「再生の道」にエントリーしている人たちには期待が持てそうだ。

選挙結果には、期待通りにはいかないだろうけれど、選挙後の展開にも「人材起用」「人材登用」として、政党として日本政治を刷新して欲しい。

俊英

「俊英」とは知能指数や知識の量や学歴などで測れるものではない。

発想力や創造力や行動力を基準にした人材発掘の能力を持つ企業が優位に立つことがでできる時代が、少しずつ幕を開けていく。

そのためには、組織改革が不可欠だ。