日本語の歴史を紐解く
漢字は中国で紀元前1500年ころに発生した。4世紀ころに論語や千字文として中国から入っているらしい。しかし、言語の構造があまりに違ったため、音として漢字を使うことになり、音読みと訓読みが生まれることになる。
そこから万葉仮名が生まれるが、10文字の言葉を漢字10文字で書くのはあまりにも不効率だったので「ひらがな」と「カタカナ」が生まれる。
漢字が伝わる前に日本に文字があったかというと、きっとなかった。なぜなら、奈良時代にあったはずの「音」を表す漢字表記が為されていない。文字があったなら、その「音」を漢字にしようとしたはずで、その痕跡が見当たらない。
奈良時代には清音が61(現在は44)、濁音が27(現在は18)。
「音」の数は、万葉仮名に当てている漢字から推定できる。「こひ(恋)」と「こゑ(声)」の「こ」は、奈良時代には違う漢字を充てている。つまり、発音が違っていた。
現存する日本最古の文章は、法隆寺金堂薬師仏の「後背銘」。漢字だけで書かれている。607年とされているが、「天皇」という言葉は持統天皇(687年)以降に使われているから、後背銘はそれ以降に作られている。それ以前は「大王」だった。
大化の改新以降に官僚機構が整備されだし、日本語特有の助詞・助動詞を書き込んだ和式漢文が成立してくる。
カタカナは漢字の一部を取り、ひらがなは漢字を崩して書くことでひらがなになる。母音も奈良時代の母音の数から現代とほぼ同じ数まで整理されてくる。 このことは文章を平易に書くようになってきたことと関連する。
「仰げば尊し」で「いまこそ分かれめ」とか「蛍の光」で「あけてぞけさは、別れゆく」のような強調分は鎌倉時代から成立してくる。平安時代に使われた係り結びは、徐々に消えていく。
係り結びがなくなるということは、実は大きな言語の変化が起きていた。つまり、言葉の情緒性が薄められ、その代りに論理性が濃くなってきた。係り結びの崩壊は、日本人の思考に大きな変化を与えた。
漢字がはいっても、和製漢文を作った上にひらがなやカタカナまで発明した。にもかかわらず、1994年の調査で常用する日本語の3割がカタカナ語になっているとのこと。カタカナ語を日本語に置き換えるという提案もあるけれど、今後、アメリカ文化の浸透が進む中で、カタカナ語のまま意味の定着をしている。
幕末・明治期の漢字熟語の発明に比べて明らかに言語能力(欧米言葉の概念化)が低下している。
前島密は、書き言葉と話し言葉に隔たりがあることが日本が後れをとった原因の一つとして「漢字御廃止之儀」を慶喜に建白したというが、西欧言葉の音をカタカナに置き換えていることで結果として「漢字御廃止之儀」になっている。
しかし、「重力」が「gravity」で、「引力」も「gravity」では、物理に対する抽象化に大きな隔たりがある。「陽子」は「proton」で、「中性子」が「neutron」、「量子」が「quantum」なら、圧倒的に日本語で考えるほうが概念化がうまくいく。さらに「素粒子」は「elementary particles」と来た日には、意味の考えようもない。
「光子」が「photon」、「電子」が「electron」。
つまり、英単語そのものには、「相貌」はなく単語の有する意味を理解することで「相貌」を作るしかないが、日本語には、あらかじめ「相貌」が備わっており、その概念から出発することができる。
カタカナ語が拡大していくことは、舶来言葉の抽象化ができないことであって、日本の知識人の言語は英語化が進んでいくことだろう。まさに、前島密が言うとおりになっていく。