永田鉄山死す

「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だった。陸軍刷新(長州閥支配打破など)を進めた。

明治17(1884)年に生まれて昭和10(1935)年に陸軍省内において相沢中佐によって惨殺された。

1921年(大正10年)に永田とロシア公使館付武官(ドイツにおいて待機)の小畑敏四郎少佐と欧州出張中の岡村寧次少佐の陸士16期の三者は、同年10月27日にドイツのバーデン・バーデンで会合をおこない、翌日にはここに東條英機も合流した。

永田(信濃)、岡村(幕臣)、小畑(土佐)は何れも陸士、陸大の優等生であるが藩閥(山縣有朋らによって形成)に属しておらず陸軍首脳になる可能性は少なく、それでは国家総動員体制を構築することが困難だと見込まれていた。

彼らの密談の前提として、

大正7年には原敬による政友会内閣の政党政治が始まり、大隈重信は山縣有朋ら藩閥勢力を動かして、欧州で大戦が行われている隙をついて対華二十一ヶ条を要求し、満蒙のみならず中国全土に影響力を広げようとするものの、ロシアを除く世界と対立することとなる。そのうえ、帝政ロシアは革命で消滅する。

そこで、原敬は、中国内政不干渉、対米英協調、国際的な平和路線を基本方針にするが、米英と本格的に経済レベルでの競争を行うことを意味した。

原内閣は、軍事力を背景に台湾、朝鮮、満蒙などを勢力圏として確保して独占的な輸出市場とすることで国力をつけようとした。しかし、その政策は行き詰っていたため、原内閣は路線を変えて対英米協調と中国内政不干渉を外交の基本戦略と設定した。

これが陸軍・右翼の反発を買い、大正10(1921)年、原敬は東京駅で射殺される。ついで若槻内閣において金融恐慌が起き、田中儀一内閣になることで山東出兵がなされ、張作霖を温存することで満蒙の特殊権益を守ろうとした。

これに反対したのが浜口雄幸であった。この浜口も右翼によって東京駅にて暗殺される。

現状の日本政治も「派閥」や「議員当選回数」などで、能力や適性とは関係なく大臣や閣僚が決められるゆえに、結果として適正や知識など全くない大臣・閣僚を輩出し、結果として官僚依存体質になっている。

総理大臣にしても、「ほかにいない」というような消極的選択で選ばれているような現状に、もし彼らが存命だったらクーデターが起きていたとしても不思議はない。

昭和8年の幕僚会議において「対ソ戦の準備をする」ということに対して永田は「ソ連にあたるには支那を従わせる。支那を従わせるためには支那を叩く」と発言。これに対して荒木貞夫陸軍大将は「そんなことをして米映が黙っているはずもなく、世界を敵にする」と反駁。

対支戦争を考えていた永田は、対ソ戦準備論の小畑敏四郎と激しく対立し、これが皇道派と統制派の争いとなる。

永田は東条英機、武藤章らと近衛文麿を担ぎ、『政治的非常事変勃発ニ処スル対策要綱』という具体案を練り、皇道派を駆逐しようとした。

手始めに真崎甚三郎教育総監を転補させるべく、林銑十郎大将を動かした。これが皇道派からすると、統帥権の干犯であると認識され、皇道派の相沢三郎中佐によって惨殺されることとなった。

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