「枕草子」が描いた世界《其の04》
清少納言が藤原定子の女房を始めたのは993(正暦4)年のこと。いまから1030年ほど前のこと。14歳で中宮になったとき、一条天皇は11歳だったから、それぞれが17歳と14歳のころだった。清少納言は定子より11歳年長と言われているので28歳くらいと推定される。
17歳の定子が、どこで清少納言を知って後宮に招き入れたのかのきっかけが直接書かれているものは見当たらないけれど、清少納言の祖父や父は歌人として名が通っていたことから定子は清少納言をツテを頼って女房としてスカウトした可能性がある。117段では、すでに名が売れていた風なことが書かれてはいる。
本によると32段「小白川といふ所は」に関白として藤原頼忠が登場する。中納言の藤原義懐とのやり取りも書かれているが、そのやり取りからは何が面白いのかは即座には理解できない。
權中納言「ややまかりぬるもよし」とて、うち笑ひ給へるぞめでたき。それも耳にもとまらず、暑きに惑ひ出でて、人して、「五千人の中には入らせ給はぬやうもあらじ」と聞えかけて歸り出でにき。
32段 小白川といふ所は
とはいえ、当時、義懐は頼忠、兼家(道隆や道長の父)らと確執があったようであるが、その義懐が清少納言に言葉を贈っていること自体は、注目に値する。
この32段を読む限り、1000年前の貴族の雅な集まりやにぎわい、人々の動きが眼前に現れるようで、とても興味深い。
この段からだけでも清少納言はある程度名を馳せていたことがうかがえる。そんな清少納言が定子付きの女房となって日が浅いころには、人前に出ることを恥ずかしがってモジモジしている清少納言に定子が手ずから声をかけてくれているシーンが177段に描かれている。
というか、この時代の貴族の女子は、人前に顔をさらすことをしないのが普通のことでもあったわけで、清少納言は、ある程度以上の階級の娘として育っていたことでもあったわけだ。
この177段において清少納言は中宮定子に心を開くきっかけとなる。中宮といえば、通常なら男児を産めば皇后になる身分で、一介の女房に自ら声をかけたり、気を使ったりすることなど考えられない。
なのに清少納言はいつまでも定子に正面から顔を見せようともせず、夜に局にきて、朝に自室に帰るような勤めをしようとウジウジしていたら、上司の女房から、注意を受ける。
見苦し。さのみやは籠りたらむとする。あへなきまで御前許されたるは、さ思し召すやうこそあらめ。思ふにたがふはにくきものぞ。
177段 宮にはじめて参りたるころ
「中宮には何か考えがあって御前を許されているのに、いつまでもモジモジしているのは見苦しいよ」と上席から注意される。その前後の会話にも、定子の気遣いがあって、ほのぼのとするシーンが描かれている。
中宮定子の指をちらっと見て、こんなに指のきれいな人がいるのかと驚くシーンも描かれている。女ならではの気づきを書き留めているのも「枕草子」の楽しみの一つ。さきの32段でも貴族が着ている衣裳などへの造詣も素晴らしい。
与謝野晶子の「私の生い立ち」にも、着るものについてとても詳しい話が延々と書かれていて、それなども「枕草子」や「大鏡」からの影響があったのかもと勝手に考えてしまう。