汚染水と処理水

その前に、ギザ十ゲットの件。

昭和28年のギザ十です。西暦で言えば1953年。2月にNHKが東京でテレビ放送を開始しています。4月にオロナインH軟膏を発売。5月にはヒラリーとテンジンがエベレスト初登頂。7月には伊藤絹子さんがミス・ユニバースで3位入賞。伊藤絹子さんは2023年2月に90歳で亡くなっていました。

DNAの二重らせん構造が発表されたのも1953年でした。

汚染水

我が国の農水大臣が福島原発の「処理水」を「汚染水」とうっかり本心を吐露してしまい、さっそく中国に突っ込まれている。

海外では、

中国:核汚染水
韓国:ほぼ、汚染水と言っている
アメリカのメディア、イギリスのBBC など:radioactive water(ラジオアクティブウォーター)放射性水
CNNなど:treated radioactive water放射性処理水
ウォールストリートジャーナ:nuclear plant waste water原発排水
国際原子力機関(IAEA):Treated Water処理水

のような表現が使われている。

単なる「処理水」というのは、やはりおかしい気もする。ワタシなら「核汚染処理水」としますが、日本のメディアは国家の言論統制下に置かれているので、政治が絡む問題に関しては言論の自由はほぼなくて、「処理水」で統一せざるを得ず、したがって国民の意識としても「処理水」と認識してしまっており「汚染水」と敢えて言うとなると「反日」思想の人と思われてしまう。

ちなみにNHKでは「radioactive water(放射線水)」としていたところ「treated water(処理された水)」に修正した(させられた)ようだ。

救いは、科学者やIAEAが「処理水」でいいとしているから、きっといいのでしょう(一部には、そうじゃないという科学者もいるようですが)。

かつての言論統制の例として「狂牛病」を「BSE」で統一したこと。「盗聴法」は、途中から「通信傍受法」と呼ぶようになりました。正確には「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」というのだそうですが、どういうわけか政府からメディアに対して「要請」があって、言論統一が為されたという過去の経緯もあります。

ようは、政府を含む権力側の発表をどこまで信じるかになりますが、風評という心理的作用も無視することはできません。

私見

賢い人が寄ってたかって溶融した核燃料を冷やす技術と、その際に発生する核種汚染水の処理をしてきた。同時に政府と東電は2015年に福島県漁連に「関係者の理解なしにいかなる処分もしない」と文書で約束していたが、日々発生する処理水の量と、物理的な保有量の限界は単純に計算すれば、いずれ飽和することは自明のことだった。

処理をして海水で薄めれば安全なら、福島県漁連に「関係者の理解なしにいかなる処分もしない」などと約束したのも怪しい話だし、どんな猛毒だって薄めて海に流せばとりあえずは安全にはなるけれど、問題は「総量」だ。

2015年に「関係者の理解なしにいかなる処分もしない」と約束した背景は、あと10年もしてほとぼりが冷めたら自民党お得意の「」で話を付けるつもりであったことは明確であったと思う。その金だって復興特別税として増税で賄っており、しかも補助金・助成金となれば利権がからむ。そこが自民党的にはうれしいポイントになる。

それと、放出する核汚染処理水の量以外に核汚染(トリチウムだけではない)された地下水を完全に遮断はできているはずもなく、デブリを完全に除去できたとしても、その後にも核汚染は続くのだろうと思う。

とはいえ、海はあまりにも巨大で、人間がやらかしたこのような失敗を受け止めてはくれるくらいに大いなる許容と抱擁で接してくれることがありがたいことではある。

地元にとっては悲惨なことであるけれど、事故さえなければ大いなる経済的メリットがあった。これは核施設を持っているすべての自治体においても同様のことである。

事故無く稼働すればいいのかと言えば、そうでもなく、使用済み核燃料の処理は、経済産業省によると、高レベル放射性廃棄物を直接処分した場合、放射能レベルが地中に元々ある天然ウラン並みに下がるのに10万年かかると言われているようで、これなども未解決の問題ではある。

原発以外に他の選択はない」「文明を捨てる」「コスト無視で再生エネルギーに転換する」。いずれの選択においても、万人にとって得心のいく選択はない。となると、経済が優先される。その経済とは「政治」で、「政治」とは「利権」が最優先であって、大きなお金が動くことと、地元に利益誘導することが政治的経済合理性となる。

それにしても、中国がガァ~ガァ~騒いだおかげで、日本人の意識が「処理水」の「放水」に結束したので、為政者にとっては、ありがたことであった。中国の反日政策に感謝している輩もいることだろう。