渡辺崋山と国宝
「国宝『鷹見泉石像』修理の記録」というYouTubeを見ました。修復の技術もすごいものですが、この絵もさすがに国宝だけあってすごいものだと痛感します。
書き方にも工夫があって、輪郭線は最後に墨で一気に書いているようです。衣装は和風に書いてあり、顔は西洋風の技法で描いているとのこと。顔のシミも2つは汚れのようですが、それ以外はシミも描いてあるとのこと。
過去にも修復されていたようですが、今回は慎重に絹を傷めないように修復している様子が動画に描かれています。
さて、渡辺崋山ですが、2011年に読書会に誘われて最初に選んだのが「蛮社の獄」でした。昭和45年に出版された本を古本で2006年に買い、そのままになっていたのを2011年の読書会に向けて読んだといういきさつでした。
「蛮」とは中国政府が南方の中国に帰順しない民族を「南蛮」と称していたとのことですが、15世紀になるとヨーロッパ人との交易が始まり、それを「南蛮貿易」とよんだことから「蛮」は洋学を表すようになり、蛮学を修めるものの仲間を「蛮学社中」、これを略して「蛮社」と呼んだ。
崋山は田原藩の家老でしたが、飢饉と藩主の浪費によって藩の財政は苦しかった。得意の絵で生活の足しにしながら知識人との交流の輪が広がる。同時に蘭学を学び、人脈も増え高野長英などを招聘したりした。
大塩平八郎の乱がおき、関係もないのに嫌疑をかけられる。漂流した日本人を助けたモリソン号を打ち払ったことを批判した。小笠原諸島をイギリスに取られそうになったことから、その前に占拠することが海防上必要であるとしたこと。
浦賀の測量を水野忠邦は開明派の江川英竜と保守派の鳥居耀蔵を組ませた。江川英竜は渡辺崋山に相談をし最高レベルの測量をしたことが鳥居耀蔵の恨みを買う。高納長英は、イギリスが栄えているのは栄達の君がいたことと、国民の勤勉によると考え、国家を改造する必要を感じていたが、この考えは幕府に取れば危険思想であった。
そこで起きたのがシーボルト事件で、水野政権内における鳥居派と江川派の政策論争のただなかで渡辺崋山が標的にされてしまった。
藩主に迷惑をかけることは出来ないとして自刃。享年49歳。