荘子を考える:逍遥遊《其の03》

蜩與鷽鳩笑之曰(ひぐらし)と学鳩とこれを笑いていわく

我決起而飛、槍榆枋而止:我れ決起して飛び、榆枋(ゆぼう)にいたりて止まるも

時則不至而控於地而已矣:時にあるいは至らずして地に落ちるのみ

奚以之九萬里而南為:なおもって9万里にゆきて南を図らんや

(ひぐらし)と小鳩(侏儒(しゅじゅ)のこと)は、そのことを笑う。我らは思い立てばいつでも飛び上がり、木々の枝に止まりながら休息をする。休むところもなければ疲れて地面に落ちてしまうだろう。何を考えて9万里も上昇して南へと目指さなければならないのか。

小知不及大知:小知は大知に及ばず
小年不及大年:小年は大年に及ばず

鶉や鳩が飛べる範囲が彼らの世界で有るゆえに、9万里の高さに舞い上がってはるか南を目指していく鵬の世界観を知ることはできない。これが「」と「」の差異なのである。

蟪蛄(けいこ)不知春秋:蟪蛄は春秋を知らず

夏しか知らない蝉は、夏のことを知っているかというと春も秋も冬も知らないのだから夏という意味もわからない。この「蟪蛄(けいこ)」とは「蝉」のことで、蝉を「自我」に置き換えれば、家族であれ友人であれ親兄弟であれ、他者のことなど解るはずもなく、他者のことがわからなければ自己のことだって思うほどにはわかっていないということを示している。

故夫知效一官:ゆえに彼の知は一官を考え

行比一:行いは一郷を覆い

德合一君:徳は一君に適い

而徴一国者:才能は一国に(ちょう)ある者は

其自視也亦若此矣:その自らを視るもまた斯くの如し

故に一人の役人の知は一つの職を考え、その行いは一つの集団にだけ影響を与え、その徳は一人の君主に気に入られるだけだし、その才能は一国に用いられるだけであるが、そのことで自らが得意になり、それをもって自己の才能と自惚れる姿は、鵬を笑う鶉や小鳩と何ら変わるところがない。

ある人は、褒められたからと言って、その上を目指すわけでもなく、(そし)られたからと言って落ち込むわけでもない(毀誉褒貶)。それは内なる自分の心と他人の思惑とに境を区切り、栄誉と恥辱に惑わされることがないからだ。

私心を持たず、功績を求めず、名誉にも関心を持たず、天地の正常さに身を任せるのであれば、あとは何を求める必要があろうか。

  • この話に登場する宋栄子は無抵抗主義、反戦主義の思想家であるが、荘子にするとまだ地上(世俗)から離れていない。
  • その点、列子のほうが超越していると荘子は言う。列子は「」を尊んでいる。
  • しかし、その列子も「」のなかの風を頼むところがあり、絶対的な自由者には達していないと評する。
  • 逍遥遊とは「己」と「功」と「名」を超えるところに自由無碍(むげ)の生活が現れるということを解いている。

而御六氣之辯:六気の弁を(あやつ)

六氣之辯」とは、「天地春夏秋冬」の気なのか「陰陽風雨晦明(かいめい)の気なのかは分からないが要するに天地自然の大気のことである。「辯」とは「」のことである。

  • 荘子は老子の考えを受け継いでいるが、老子における自己の否定は、いささか打算的な部分がある。
  • 莊子は徹底して自己を克己することにおいて違いが鮮明となる。
  • 荘子の無己、無功、無名は単なる否定ではなく冷徹な肯定を意味している。
  • それを「無為」として位置づけている。為そうとすることをやめるところから「己」「功」「名」が否定される。