藤原良相と小野篁

藤原良相(813-867)は、冬嗣の五男。兄に良房がいる。官位は正二位の右大臣。西三条大臣と号した。834年、仁明天皇(808-850)に召し出されて仕えた。

承和の変において皇太子・恒貞親王の座所を包囲している。恒貞皇太子は淳和天皇の皇子。

仁明天皇の后に冬嗣の娘で、良房や良相らの兄妹である順子が道康親王(後の文徳天皇)を生むことで、恒貞皇太子を廃太子するために藤原氏が仕組んだ他氏排斥の一環の事件。

良相の昇進は、長兄の長良(802-856)を超えて良房のすぐ後に付けて右大臣となる。ちなみに、藤原基経は長良の子であったが、男児がいなかった良房の養子になって藤原北家の惣領となっていく。

文徳天皇の子の清和天皇に、良相の娘・多美子を女御としたことで、男児が生まれれば良房の後を継ぐことが可能となるが、良房から警戒されることとなる。

その背景として基経の同母妹(つまり、長良の娘)である藤原高子は、在原業平との恋愛問題が公知となったため入内が困難と思われた。そこで良房は、良相の多美子を入内させた。

良房は、養子にした基経よりは、良相の子の常行に期待をかけていたと思われる。ところが、伴善男のハカリゴトで嵯峨天皇の皇子である源信(みなもとのまこと)を応天門の放火犯とする事件が起き、良相は、良房にも清和天皇にも相談なく源信の邸宅を取り囲んだことで、良房は良相に反感を持った。

良房が病を得ると、良相と姉の順子と伴善男の3人体制で政権中枢を牛耳っていたが、良房が回復することで、良房と良相の権力闘争が顕在化する。そのような最中に「応天門の変」が起き、伴善男は良房によって断罪される。

このあたりから良房は後継を基経に定め、清和天皇へ高子を入内させることで、良相系統が藤原北家の主流から離脱した。

以前、良相は学生であった小野篁(たかむら)が罪を犯した際これを弁護した事があった。後に良相は病を得て一旦死去し地獄で閻魔大王の目前に引き据えられるが、閻魔王宮の臣として裁判を手伝っていた篁の執り成しによって赦され冥界から帰還したという

巻20第 小野篁依情助西三条大臣語 第四十五

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