荘子を考える:斉物論《其の11》

物無非彼:物は彼れに非らざるは無く

物無非是:物は是れに非ざるはなし

自彼則不見:彼よりすれば則ち見えざるも

自知則知之:自から知れば則ち之を知る

物は「あれ」でないものはなく、同時に「これ」でないものもない。

人間は自らを「」とすることはなく、自らを「」としてわきまえる。

これを客観的に考えてみれば「われ」からみれば「これ」になるのと同じく、「これ」からみれば「あれ」になるのと同じく、「」からみれば「」であり、「」からみれば「」になる。

このことは「」から見れば相手は「」になり、相手から「」とされた我は我にとって「」になる。価値観とは、こうしたもので、絶対的なものではなく相対的なものであるから。

  • 荘子のとらえる「」とは、一切の対立と矛盾を包み込む「」であり、「自ら然る」すべてを受け入れることになる
  • これ」も「」であり、「」も「これ」であるとすれば、そこに生じる対立などは意味を持たなくなる。そうした境地を「実在の真相」と呼ぶ。
  • そうした叡智(万物斉動)を自己のものとすることで逍遥とすることができるようになるとする。

是亦一無窮:是もまた一無窮

非亦一無窮也:非もまた一無窮なり

善し」とすることも一つの極まりない変転であり、「悪し」とすることもまた、一つの極まりない変転である。

自分の考えこそが「」であると主張すれば、少しでもその考えに異があれば「」または「」「」となってしまう。

ひとたび、「」の考えから「」とされた立場からすれば、自らの考えは「」であるのだから、その相手は「」「」でしか無いことになる。

よって、賢い人は自らの考えに「善悪良否」を持たないものである。そこには「」も「」もなくなることで対立もなくなる。

主義や主張を持つべきではないということではなく、自らに主義や主張があるのと同じく相手にも主義や主張があるのだから、自分とは異なる考えや意見を「」としないことから、対立を超えた境地で物事を考える事ができるようになる。