「国民」と「人民」
《公文書を疎かにすることは民主主義を毀損するのと同じこと。主権者たる人民を蔑ろにする行為に対して、怒って然るべしです》
人民
人民
特定の社会や国家を構成する人々のこと。特に支配者に対する被支配者を、社会的地位・階級・財産にかかわりなく人民と称する。
一般には、人民が国家との間に法的な関係をもち、国家の積極的な構成員となるときに「市民」と称している。更にナショナリズムに目覚めた存在になると「国民」と称している。
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「人民」の語彙は中国で作られ、紀元前4世紀には使われていた。支配者に対する被支配者としての概念であった。日本では8世紀あたりに主として「日本書紀」に多く見られるとのこと。「天皇の宝」というような意味合い。明治になると「四民平等」を標榜する関係で官人と軍人を除いた「一般人」を指す法律用語となって使われていた。
自由民権運動によって「人民」の権利を主張していることから、大日本帝国憲法では「臣民」という言葉を使っている。ここにおいて「人民」は権力者に支配される状態は不当だという語感をまとうようになる。戦争に負けてGHQは「臣民」を「人民」にし「日本に住む全ての人」と意味しようとしたが、日本側(誰?)の反対によって日本国憲法において「国民」とし「日本国籍を持つもの」だけを対象とし、それ以外は含まないという主張が生まれた。
国民
国籍と無関係な概念が「人民」、ある国の国籍を持つ者が「国民」とする意味に区別される。
リンカーンによる「人民の人民による人民のための政治(government of the people, by the people, for the people)」という有名な一節があるように、本来「人民」の語は民主主義の主体を示す用語として用いられた。20世紀前半以降、共産主義運動や共産諸国家では、国際共産主義の立場から「国民」(nation)よりも「人民」(people)を好んで用い、そのため本来の語義を離れて「人民」という言葉に、共産主義のイメージが感じ取られる場合が多くなった。
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20世紀前半以降、共産圏では「国民」より「人民」を使う傾向があり、とくに毛沢東時代においては「国民」から反革命分子を除いた狭い概念で「人民」を使った。
日本では1930年代あたりから左翼は、天皇の含みのある「臣民」や、ファシズムの含みのある「国民」を用いず「人民」を積極的に用いた。敗戦後、弾圧から解放された左翼勢力による暴力闘争が国民多数から敬遠されるようになると左翼政党自体も「人民」を使わなくなるようになる。
国民新党の英語名称はThe People's New Partyであり、直訳すれば「人民新党」になる。
まとめ
文書において言葉は重要である。例えば文書管理で「保管」「保存」「保有」という言葉に意味を持たせるなら、用語として明確に定義しなければならない。その定義の解釈は普遍的ではないがゆえに、運用実態として改めて定義をしたうえで使わなければ混乱することとなる。
「人民」が民主主義の主体であるという主張は事実である。しかし、現在の日本であえて「人民」を日本国の主権者として位置付けるなら、その前段としての説明(再定義)が不可欠である。まして、政治家は「言葉」と「行動」と「責任」だけの職業である。
となると、冒頭のスピーチで使っている「主権者」と「人民」には明確な意図を含まずに「迂闊」に使ったとしか思えない。そうでないのであるなら主義主張としての「再定義」を示さなければ責任ある発言とも思えない。
「迂闊」に使ったことを隠そうとして糊塗するなら、なおさら軽率のそしりは免れない。
政治家は「言葉」に政治生命をかけるべきである。
「公文書を疎かにすることは民主主義を毀損するのと同じこと」には、同意するというよりも、基本中の基本であり、アメリカでは建国前の議会において、すでに議論されていることでもある。日本では福田内閣においてやっと公文書管理を法制化したが、罰則も設けていないざる法になっている。
菅前総理大臣が官房長官のときに文科相で使われた「総理の御意向」と書かれた文書を「怪文書」として闇に葬ったにもかかわらず、昨今の高市大臣が総務相の時の放送法解釈変更に関する日時不明、作成者不明、あて先不明、閲覧者不明のメモは「怪文書」にならず「行政文書」になっている。
権力者の解釈に応じて「行政文書」になったり「怪文書」になったりする公文書管理には、民主主義などという考えなど微塵もないこと明らかである。権力中枢にいる人々には「民主主義」も「人民」も「国民」もなく、彼らの利権と栄達だけが、彼らの行動原理である。
そのことこそが民主主義を毀損しているということを問題提起とし、論拠と解決策を示すのが野党政治家の使命であるはずであるが、そのような崇高さからは程遠いことを如実に示していると思うのは我だけなのか。