藤原広業(977-1028)
藤原広業は、一条天皇の時代に昇殿を許されている。文章生。対策に及第して1000年には従五位下になる。
対策(たいさく)とは、日本で平安時代初期から室町時代まで行われた、官吏登用のための試験である。中国が唐の時代、秀才を選ぶ際に「策問」と称して天子が時事または経義をもって出題し、士がこれに応じて奉る文章を「対策文」と称していた。この制度が日本に伝わり、日本でも秀才が導入された。平安時代初期、文章博士(大学寮で詩文・歴史を教授した教官)が「策文」を出して文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に答えさせる試験が行われるようになり、この試験が「対策」といわれるようになった。
藤原広業(ひろなり)は、1003、4年に一条天皇の身近に仕えていた。このころは藤原定子が死んでおり、藤原道長の長女・藤原彰子が皇后であった。居貞親王の即位(三条天皇)に伴って2階級昇進して1年間で4階昇進の正四位下に叙される。
1013年に伊予介の任期を終えて藤原行成から伊予国における敦康親王(一条天皇と藤原定子との第1皇子)の封25戸の封物の納入不足を理由に任期満了の合格に待ったがかけらるが道長などへ運動をして合格になっている。
敦康親王は藤原定子が一条天皇との間に生んだ第1皇子で、中関白家(藤原道隆)は没落したため、寄り添う貴族がいない中、行成は支援をし続けていた。
道長は、孫である敦成親王(一条天皇の第2皇子、後の後一条天皇)の読書始の博士を広業に努めさせたかったからと言われている。
後任の伊予守になった藤原為任は、三条天皇の立后に関して道長と確執があったこともあって、広業の職内容に問題があるとの文書を提出したため広業は、責任を果たし終えていないとされ文章博士になることができず、敦成親王の博士にはなれなかった。
「紫式部日記」では、藤原彰子が敦成親王を生んでから初の入浴の場面で広業が史記の1巻の朗読をしているシーンが書かれている。道長は広業を引き立てていたようだ。理由はきっとあるのだろうが、今のところは不明。
1019年には敦良親王(一条天皇の第3皇子、後朱雀天皇)の東宮学士になっている。
新元号である「万寿」を撰進して従三位にまで登る。1027年、藤原道長と藤原行成が同日に没したため、後一条天皇に行成も薨請に加えるべきとした清原頼隆を、道長の長男である関白・頼通は勘当したが広業の讒言であるとされている。
広業は、真夏流とのことであるが、ちゃんと調べないとつながりが分からない。祖父の輔道から真夏まではいまのところ不明。
広業は、道長の威を借りて昇進を目指していたが、為任は異母妹の娍子が三条天皇の皇后になり、敦明親王が天皇になれば外祖父になれたところであるが、道長は自分の娘である妍子を三条天皇の中宮とした。三条天皇は正式に娍子を立后したことから、三条天皇と道長は険悪になっていくが、妍子は男児を生まなかった。
しかし、道長は敦明親王に圧力をかけて皇太子を辞退させている。
ところが、藤原妍子が三条天皇の間に産んだ女児・禎子内親王は、藤原彰子の次男である後朱雀天皇の皇后になり後三条天皇を生み、後三条天皇は道長の第2夫人である源明子の二男の藤原能信の養女である藤原茂子との間に生まれた白河天皇によって藤原摂関時代は終焉を迎える。