牛車のわだちの跡
八幡市といえば、エジソンの電球のフィラメントに、当初、八幡の「八幡竹」が使われた。ついでの話として、八幡太郎義家は石清水八幡で元服したことから命名されている。
と書いた八幡市で33歳の女性が市長になりました。自民・公明・立民の支援を受けての当選だそうですから、無党派による勝利ではないようですが、爺や婆に比べれば、若いというだけでもいいとしましょう。というと、当の本人から「ふざけるな」となりそうなので、これ以上の言及はやめます。
さて、表題のことですが、長岡京跡の発掘で、昭和40年に「轍(わだち)」の跡が発見されました。左右の車輪の間隔は4尺3寸(1.29メートル)。人の足跡や牛の蹄の跡もあったそうだ。
十二堂院の敷地造成工事の直前の痕跡だと推定されている。雨上がりの泥濘を重い荷を牛も人も苦労して往来していたことが考えられる。雨季にかかった建設材料の運搬をさせられたのだろう。
長岡京は、桓武天皇が平城京を捨てて、突貫で造営した宮城である。学問的には、仮設程度の認識でしかなかったが、実はかなり本格的な造営がされた宮城であった。これを放棄してわずか10年後に平安京を造営した背景については次回の話にする。
784年に造営に着手し、785年には大極殿で年賀の儀式が行われている。延暦3年に大雨が降ったことが記録されており、そのさなかに宮城造影用の資材運搬が盛んに行われたとされているが着工は784年からなので1年合わない。
「轍」は平安京でも見つかっていたが、長岡京での発見は最古になる。日本で牛車が使用された記録が残っていない。畜牛は弥生時代に中国からもたらされた。奈良時代には全国的に飼われていたようだ。
弥生時代に牛が入ってきたのなら牛車も使われていたはずであるが、記録はない。5世紀の北九州に車持部(くるまもちべ)があったので、奈良時代には貨物運搬用に牛車が使われていたことは推定できる。
貴族が乗用車として牛車を使いだすのが平安時代初期の記録に登場する。奈良時代の記録には見つからない。中世以降江戸時代までの数百年の運搬手段として牛車が重用されていたから、奈良時代においてもそうだったのだろう。
延喜式では、牛車の輪は櫟(いちい)、轅(ながえ)は樫、軸受けは欅と決まっていた。ちゃんと木材の使い分けができている(小原二郎の「木の文化」によれば、木としての優れた性質を知るためには数百年かかるそうだ)。
中国を見てみると662年に作った長安大明門の遺跡で見つかった轍の幅が1.36メートルだったので、ほぼ変わらない。
紙も少ない時代に、庶民の記録はほとんど残っていない。そんな中、荷物の運搬用の牛車の証拠が残っていることは、とても貴重な記録である。
いまから1300年も前の、今となれば無名の労働者が牛と共に宮城を作るために荷を運んでいた。その給金はいくらで、どのようにしてもらっていたのか。家に帰れば妻や子がいて、どうやって買い物をして、どうやって一家団欒で食事をしていたのかなど、想像が弾む。
歴史と言えば(主としてNHK大河など)、大名とか貴族とか、はたまた英雄しか取り上げないが、そうした人たちを支え、搾取され、虐げられた人々の数は、何万倍も何十万倍も何百万倍もいた。そうした「庶民」がいなければ国家なんて運営ができない。そうした庶民の悲喜こもごもにもスポットを当てなければ歴史なんて、ほとんど価値を有さない。