「枕草子」が描いた世界《其の12》
207段は「笛は横笛、いみじうをかし」の続き。
笙の笛は、月の明きに、車などにて聞き得たる、いとをかし。所狭く、持てあつかひにくくぞ見ゆる。さて、吹く顔やいかにぞ。それは、横笛も、吹きなしなめりかし。
篳篥は、いとかしかましく、秋の虫を言はば、轡虫などのここちして、うたてけ近く聞かまほしからず、まして、わろく吹きたるはいとにくきに、臨時の祭の日、まだ御前には出でで、ものの後に横笛をいみじう吹きたてたる、あなおもしろ、と聞くほどに、なからばかりより、うち添へて吹きのぼりたるこそ、ただいみじう、うるはし髪持たらむ人も、皆立ちあがりぬべきここちすれ。やうやう琴、笛にあはせて歩み出でたる、いみじうをかし。
「笙」は、東儀秀樹さんの言によれば「天から差し込む光」と例えている。匏(ほう)と呼ばれる部分の上に17本の細い竹管を円形に配置し、竹管に空けられた指穴を押さえ、匏の横側に空けられた吹口に息を吸ったり吐いたりして金属製のリードを振動させる。
内部が結露しやすいので、演奏前には楽器をあたためる必要がある。抑える穴の組合せで和音を出す。奈良時代に雅楽と共に伝わってきたとされるが正確な起源は分かっていないらしい。
楽祖は藤原基経とされる。その後、楽人の豊原家に継承され源頼義、義家、義満で伝授され、そんなことから足利尊氏も若いうちから笙を習得し、尊氏に擁立された後光厳天皇も習得した。その後、笙は足利将軍家の象徴とされた。
「篳篥」は、亀茲(きじ)が起源とされている。植物の茎を潰し、先端を扁平にして作った蘆舌の部分を、管に差し込んで吹く楽器が作られており、紀元前1世紀頃から中国へ流入した。3世紀から5世紀にかけて広く普及し、日本には6世紀前後に、中国の楽師によって伝来されたが、正倉院には当時の遺物はない。
胡器(こき)とされ、高貴な人が学ぶことは多くはなかった。「胡」とは、古代中国の北方・西方民族に対する蔑称で、異民族由来であることを意味している。胡弓なども同様。
天皇の前に出ることなしに物陰に控えて横笛を吹いているのを「いいな」と思って聞いていたら、途中から一緒に篳篥を吹き添えたのは髪の毛が総立ちするような感動を覚えた。
とカバーしているけれど、冒頭で「クツワムシ」と評し、近くでは聞きたくなかったようだ。
清少納言は、このようなことを書く意図は、藤原道長からの圧力によって、ひたすら凋落しつつあった中関白家の藤原定子の気持ちを慰めるためであった。いかに軽妙なことを書いたとしても、底流には定子を慰める清少納言の悲しさがあふれている。