銭の登場
武蔵国秩父郡(今の埼玉県)で銅鉱石が発見されて朝廷に献上された。当時、日本の国で一番欲しいものの一つであった和銅が出たことは大変おめでたいことだと喜んだ朝廷が、和銅にちなんで改めた年号なので、「和銅元年」となった。
和銅は708年の元号である。
当時広く使われていた唐のお金の「開元通寳」にならって、「寳」の一部から採って略字の「珎」にして「和同開珎」という名前にした。
「和同開珎」は、日本以外にまで及んで各地から多量に発掘、発見されていて、分析の結果として和銅の時代に日本で作られたことが証明されている。
昔は「ワドウカイホウ」と言ったが、最近では「ワドウカイチン」というようだ。ところが、平城京や難波京跡から「富本銭」が発見され、天武天皇時代の鋳造と推定されることで「和同開珎」が日本最初の通貨ではないとなりつつある。
さっそく「リートン」に聞いてみると、
初期の通貨としては、布、米、塩などが使用され、庸の支払い手段として機能していた
7世紀後半に金属貨幣が登場し、708年の和同開珎が日本初の金属貨幣とされている
銀銭や富本銭なども発行され、主に国家支払い手段として機能していたようだ
8世紀には平城京遷都や東大寺大仏の造営に伴い、和同開珎銀銭と銅銭が発行された
貨幣の主な目的は、平城京建設のための支払いや給与の決済だったが、一般的な交換手段としても使用されるようになった
貨幣が通貨となるために、役人の給料の一部を「銭」で支払い、役人は商人に銭で支払う。商人は銭で納税するという循環を作る。次に、1枚のコインに原価以上の価値を付けることで、貨幣発行益が政府に生まれることになる(いわば紙幣のような兌換性を持たせたということ)。
平安時代になると、桓武天皇が長岡京や平安京を建設することで、その建設費に銭を使うようになり、平安京の経済は貨幣で回るようになっていく。平安時代も西暦で1000年ころになると大規模建設や戦争が無くなると、銭の需要が無くなり、だんだん使われなくなっていく。
その代わりに使われたのが「米」。朝廷に財政を補填しなければならない事情がなければ貨幣を発行しないだけのことである。
中世に入ると、足利義満が明との貿易で明銭を大量に輸入して流通に使用されるようになるが、重いため遠隔地のやり取りは文書を使うやり方も登場する。手形のようなもの。
このあたりから時代は「中世」へとコマが進む。
余談であるが、他に誇るものが少ない埼玉県としては「和同開珎」が、「カイホウ」であれ、「カイチン」であれ、なんとしても日本最古の通貨であって欲しいと願っている。