「枕草子」が描いた世界《其の07》

16か17歳の藤原定子は、清少納言を女房にしたのには、明確な理由があったはずである。

清少納言の父親である清原元輔も歌人であったし、祖父の清原春光に関しては詳細が不明となっているが、曽祖父の清原深養父は、勅撰歌人であり勅撰和歌集には41首が選ばれている。藤原公任の三十六歌仙には選ばれていないが、藤原範兼の中古三十六歌仙には、曽祖父と共に清少納言も選ばれている。

清少納言としては曽祖父が有名な歌人であったということを背負わざるを得なかったようであるけれど、本人は和歌に関しての才能を自らは認めていない。

本名は諸説があるが確定してはいない。「少納言」という職名の由来も不明である。近縁に「少納言職」の人材がいないらしい。

藤原定子の父は、藤原兼家の長男である道隆で、定子の母は高階貴子。

女房三十六歌仙にも選ばれるほどの歌人であり、かつ、漢才を愛でられて殿上(円融朝)の詩宴に招かれるほどであったという。そこで藤原道隆の妻となり、伊周ら男児3人、定子ら女児4人を生む。

高階貴子の夫の道隆が関白、摂政になり、長女の定子が一条天皇の中宮になることで、高階貴子も正三位に昇進している。

栄花物語によれば、定子の御殿は宮仕えに慣れていた高階貴子の意向で、奥に引っ込んでばかりいるのではなく明るく打ち解けた雰囲気にするように諭されていたのだろうとされている。

高階貴子の貴族としては末流であったのに、円融天皇を交えるような詩宴にも招かれるほどの才女であったため、藤原家本流の嫡男である藤原道隆の妻になるなど、本来ならあり得ることではないのに、道隆がたって望んだらしい。道隆にとっては上級貴族の子女にはない「知性」が高階貴子のセールスポイントであったということ。

藤原定子が清少納言に求めたのも、そこだったと言えそう。当時の女性に学問は不要だったようで、藤原定子にすればそういう旧習に我慢ができなかったことからリクルートして清少納言を見つけたのだろうと思うけど根拠はない。

高階貴子には男児3人と女児4人がいたが、いずれも和歌、漢学の才をみっちりと仕込まれていた。長男の伊周は軽率な行いによって失脚してしまう。

大鏡では伊周を出来の悪い貴族の坊や程度の扱いしかしていないが、枕草子では貴公子として描かれている。

全ては運命で、道長の時代が幕を開けることとなるけれど、思いもしない時代の流れから白河天皇の時代がくることで藤原摂関時代は終焉を迎える。これまた、運命。