荘子を考える:斉物論《其の09》
一受其成形:一たび其の成形を受くれば
不亡以待盡:亡(ほろ)ぼさずして以て尽くるを待たん
與物相刃相靡:物と相い刃(さから)い相い靡(そこな)い
其行盡如馳:其の行き尽くすこと馳するが如(ごと)にくして
而莫之能止:これを能く止むるなし
不亦悲乎:亦悲しからずや
人は一たび自然としての生をこの世に受けた以上、この自然としての生を、自然としてそのまま受け取り、これを失うことなく、命の果てる日を待つほかないであろう。しかるに一般の人間は、徒らに外界の事物に引きずられ、他と争い傷つけあって、自己を耗りへらして、その人生を早馬のように走りぬけ、これをとどめるすべを知らないのは、なんと悲しいことか。
自己をすり減らし、早馬のように走り抜けて自らを消耗させていくことが、あたかも他から命じられているかのごとくであるが、よくよく考えてみると、自分で選んでいるのであって、これほどの大哀はない。
それをさも充実しているかのように自分に対して詭弁でごまかすが、それが本当に自分の生き方と胸を張って言えるのか。
そのような愚かな生き方をしているのは自分だけなのだろうかと投げかける。
狂乱、惑溺、固執、羨望、失意、歓喜と目まぐるしく起こる感情の起伏も、反応としては様々あるけれど、実は「一(いち)」に帰結することであるのではないかと考える視点を与えている。 論争や思想の原点となる言語(思惟としての認識は自己の言語の範囲内でしか具体的に把握することができない)、そして言語化した判断、判断の主体となる真実性などへの考察が必要になっていく。
思想論争が激しくなる春秋末戦国の中国思想界に生きた荘子は「言語」「道理」「実在」「認識」の問題を自己の問題として展開した。