「人間の建設」という本をもらう
知己が、この本を読みなさいといってくれました。
小林秀雄(明治35(1902)年-昭和58(1983)年)と岡潔(明治34(1901)年-昭和53(1978)年)の対談です。1965年あたりの連載だそうです。
はじめて二人は会ったそうで本の前半は、なんだかお互いの知性の探り合いのような展開で、いささか退屈でした。
面白くなってくるのはドストエフスキーとトルストイあたりの会話あたりからで、二人の間の「遠慮」が取り払われてきて、小林秀雄に勢いが出てきます。とはいえ、そのことは本としては面白いのですが、中身として「なるほど」と思えたのはゴッホに関する話です。
ゴッホの複製をみて感動した。その後、アムステルダムで原画を見たら感動しなかった。「複製の方ができあがりがいい」という意見が書かれていました。
昔、「キリングフィールド」という映画がありました。1984年の制作だそうです。カンボジアで、アメリカの記者の助手をしたカンボジア人がクメール・ルージュから追われて逃げる。記者はとっととアメリカに逃げ帰り、助手は山中を逃げ、隣国に逃げ延びることができる。
その隣国で車のラジオからジョン・レノンの「イマジン」が流れている。そこに、アメリカに逃げ帰った記者が、彼を探し当てて再会する。と、カーラジオのイマジンが映画館の大音響になって終わりになります。
カーラジオであれ、劇場のステレオであれ、メッセージが受け取れるかだと思います。
台東区では、いまだにフルトベングラーやブルーノ・ワルターが指揮したSPをCDにしたのを買っていますが、音楽の本質とは誰が指揮したかではなく、どのシチュエーションで聞くかだと思うのです。
オーディオに莫大なお金をかける人がいますが、それはそれで「納得」の観点が違うからどうでもいいのですが、場末の居酒屋のジュークボックスから流れる音楽でも、その人の状況によって感動できるのが人間なわけです。
それからすれば、絵や焼き物の真贋は鑑定士に任せればいいので、とどのつまり「芸術」は、作品ではなく、作品から得られる自己の感情なのではないかと思うのです。
弟テオがゴッホに送ってきたモネーの絵葉書を見て刺激を受け、ゴッホはパリに行く。人間は絵葉書からでもメッセージを受け取ることができることが示されています。
文学も同じで、そこに「人生」を感じられるか、「人生」を投影できるかが自分にとっての価値になると思うのです。