「大平3原則」を学ぶ
これがワシの顔かと大平云い
大平正芳は明治43年に香川県で生まれた。子供6人を抱えた大平家の生活は苦しいもので、大平も幼いころから内職を手伝って家計を支えていたという。
経済的に恵まれなかったものの親戚からの援助や奨学金を得て、高松高等商業学校(現・香川大学経済学部)に進学した。1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けクリスチャンになる。
昭和恐慌の煽りを受け採用自体がなかったため進学も就職も決まらない状態にあったが、1933年(昭和8年)、再び学業に戻ることを決意し、2つの奨学金を得て、東京商科大学(現・一橋大学)に進学した。
1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験に合格し大蔵省に採用された。1952年(昭和27年)、大蔵省時代の上司だった池田勇人の誘いを受け、9月5日に大蔵省を退職し旧香川2区から立候補し当選。
1957年(昭和32年)、池田勇人が宏池会を発足させると、池田のもとに馳せ参じた。第1次池田内閣でも、第2次池田内閣でも官房長官を務める。
1962年に外務大臣になると、韓国との国交正常化で合意したことで、日中関係を重視していた池田勇人と離反することになる。
話は表題に戻ると、1974 年 2 月 20 日の第 72 回国会衆議院外務委員会における大平正芳外務大臣の答弁内容で、
①法律事項をふくむ国際約束
②財政事項をふくむ国際約 束
③政治的に重要な国際約束
という原則を表明し、いずれの条約が国会で承認を必要とするか、いずれの条約が国会承認を必要としないかという決め方は、この三原則に従って、行政サイド、つまり内閣がこれに対して取捨選択をするということになるわけで、国会が決定するということにはならないことになる。
実質的意味の条約のうち国会の承認を要するものを日本国憲法上は通常、国会承認条約という名前で呼ぶ。それ以外のものを行政取り決めあるいは行政協定ということで、これは政府限りで締結することができる。
憲法の条文では、七十三条第二号に基づいて政府限りで締結ができるという扱いを行っており、その両者の分類について、いわゆる大平三原則というものでやっている。
第七十三条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
二 外交関係を処理すること。
三 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
五 予算を作成して国会に提出すること。
六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
七 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。
憲法73条2項で内閣が決定するのか、3項のように国会承認を執拗とするのかは時の内閣次第になる。
そのための原則が「大平3原則」になる。逆に「既に国会の承認を経た条約や国内法あるいは国会の議決を経た予算の範囲内で実施し得る国際約束については、外交関係の処理の一環として行政府限りで締結し得る」ことになる。