グローバルダイニングで思い出したこと

東京都から狙い撃ちされて、それが不当であるというような「法の下の平等」を問う裁判となりました。東京地裁の判決ではグローバルダイニングの損害賠償104円は棄却したものの、「合理性に欠く時短命令を下したことについて、都の判断は違法であった」とのこと。

請求額の根拠が不明ですし、都の判断には「違法性」があるとしたものの、その罰則も不明です。

時短営業」に対する強制力が争われるべきで、「公権力の濫用」に原点があるように思います。そこで争った後に民事で遺失利益に対する損害賠償を問えば、都の判断を明確化できたと思いますが、素人が口を出す話でもないのでやめておきます。

というか、このような件で「グローバルダイニング」と言う名前が取りざたされたのを見て思い出したことがありました。

店の名前は分からないのですが浦安にあるでっかいレストランだったと思うのですがテレビで取り上げられていました。これがおそらくグローバルダイニングだったのだろうと思いますが確証はありません。

働いている若者たちのミーティングで「給料を上げて欲しい」だったか「職位を上げて欲しい」だったかをみんなの前で要求する。それをみんなで審判するわけです。

あるいは、女の子が配膳で頼まれた料理をテーブルに持って行って配膳に帰ってくると直属上司というかグループリーダーが「笑え笑え」とか、「食べ物持っていったら飲み物はいかがですかと言って来い」というようなアドバイスというか、司令というか、教育というか、指導というか、突っ込みというか ワタシ的には見ていて耐えられないものがありました。

働く人間にとって「モチベーション」はどのようにして生まれるかのような難しい話は、私ごときには分かるはずもありませんが、少なくとも「忠誠心」が必要と思います(あちゃらかではアイデンティティというのかも)。忠誠心は、経営者に対する場合もあるかもしれませんし、職場や同僚に対する場合もあると思いますが、少なくとも強制されたり、強要されるべきものとは思いたくありません。

こうしたことが当たり前になってくると、少なからず「原理」が働くようになり、思考を停止しないと職場に馴染めなくなるような気がします。

これはアメリカの真似をしている風であって、全然、アメリカ流ではなく、むしろ戦前の日本帝国陸軍や帝国海軍に通じるもののような気がしたのが随分前のことで、東京都を訴えた裁判のニュースで、そのような記憶がよみがえってきました。