ヘーゲルは言った

主人と奴隷の弁証法

奴隷は主人に従属し過酷な労働に耐え、主人はのうのうとその労働の果実を享受するが、奴隷は労働を通じて世界を形作るスキルを身に付け、やがては自由を獲得する。

奈良・平安時代の奴隷も、南北戦争前の奴隷も、世界を変えるスキルを身に付けたとは思われない。エジプトでピラミッド作るために、来る日も来る日も巨大な石を運んでいた奴隷がスキルを身に着けて自由を獲得したとも思われない。自由とは「死」でしかないのが奴隷の宿命だった。

グローバリズムと横文字にすれば聞こえはいいが、結局は安い労働力を搾取して利益を生み出そうとする資本家という「主人」がのうのうと果実を享受しようという試みに過ぎない。

「自由」とは何かと考えると、拘束されていないことになる。あらゆる拘束から解かれることが、本当に喜びになるのであろうか? 国家や社会も会社も「拘束」であるし、ヘーゲルの言うような奴隷にとっての主人も「拘束」になる。

ちなみに刑務所に入れられることを「自由刑」という。身柄を拘束され国家権力によって拘禁される刑罰を意味する。借金も「拘束」である。奈良・平安時代の身分や、江戸時代の士農工商なども「拘束」であるけれど、工人たちは、今の工人たちなど足元にも及ばないほどの技芸で自由を表現していた。

それはなぜかと言えば、絵師は絵師として生きていくことを決意し、絵師としての高みを目指すことにおいて精神の自由をえることができ、制約は自己の能力だけになる。今の工人たちは、お金は欲しいし賞は取りたいしで、かつての工人たちよりも拘束sれる要素が多い。

つまり、身分という制約(拘束)があるがゆえに、そのことだけに専念することができるようになる。

健康とはなにか。健康を害していない状態をいうけれど、「健康」であることを意識するときとは、健康を害してしまってから健康を取り戻したときである。

結局、自由とは、自由を失っているときから、解放された時に感じるものとも言えそうだ。社会とか家庭とは、そもそも制約であり束縛であるけれども、だからといって自由を阻害されていると感じない限り結局は自由と言える。

しかし、その自由は通常認識することはないけれど、健康と同じく失うことから回復することで初めて実感でき、謳歌することができるように思う。

昔、飲み屋で酒を飲んでいた時、カウンターに二人連れがいて、一人が「カミさんに怒られるからそろそろ帰る」といったところ、「女房持ちは不自由だね。俺なんて酔っぱらって公園で寝ても誰からも怒られないぞ」と続けて「でもね、自由ってのは不自由だぜ」。

荘子に「無為の為」という考えがある。それを流用するなら「不自由の自由」と言えそうだし、逆も真で「自由は不自由」ということ。

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