大鏡:其06《帝紀-宇多天皇》
第59第 宇多天皇(867-931)
光孝天皇の第3皇子で諱は定省(さだみ)と言った。生母は班子女王で桓武天皇の孫になる。18歳のときに姓を賜って源氏という臣籍に降下した。在原業平と相撲を取って御椅子にぶつかって手すりが折れたことがあった。21歳で即位して宇多天皇となる。
賀茂神社の臨時祭(葵祭)がはじめて行われたときの勅使に藤原時平がなった。
橘良利は天皇の寵愛を受け一緒に出家した。熊野の参詣のとき、日根というところで、
ふるさとの 旅寝の夢に みえつるは うらみやすらむ またと訪はねば
《旅先でふるさとの夢をみるのは家人を放ったまま旅ばかりしているからだろう》
宇多天皇が臣籍降下して源定省だったとき、陽成天皇の即位で舞人を務めた。天皇に即位して陽成院の前を通って行幸したとき陽成上皇は「当代は家人にあらずや」と言ったとか。
- 基経は高子の同母兄だったが確執があり、清和天皇との間に生まれた陽成天皇を廃帝にして、陽成天皇からすれば祖父の弟である光孝天皇が即位することとなる。
- ちなみに、光孝天皇が即位したのは55歳だったので、天皇即位ではギネス級の最高齢である。
- 光孝天皇は、陽成天皇にも男児がいるので、いずれは皇統がそちらに戻るだろうと思って自分の子を臣籍に降下させた。
- 宇多天皇は源定省となっていたが、基経によって皇籍に戻る。その時に宇多天皇の女御になっていたのが藤原胤子であった。
- 藤原胤子は藤原高藤と宮道列子との間に生まれた女児で、高藤が鷹狩りに出かけて雨宿りの宿を提供した家の娘と一夜限りの契りによって生まれた女児だった。このことは今昔物語にも大鏡にもエピソードとして書かれている。宇多天皇が臣籍降下して源姓だった故に藤原胤子を女御にしたと考えられる。
- 宇多天皇は名君で治世は聖代であった。