「アスペクト」との出会い
「アスペクト(aspect)」とは「(問題の)見方、見地。(物の)外観、様子、様相、状況。」と訳されている。
もう少し踏み込んだ説明になると「動詞のあらわす行為・過程をどのようにとらえるかの違いにかかわる範疇分け、およびその区別に基づく語形上の交替を相(アスペクトaspect)の違いという」などと書かれている。
あるいは「ロシア語文法のいわゆる完了体と不完了体の別が一例。フランス語の文章語における単純過去と半過去との対立も、一般に時制として論じられるが、実はアスペクトの対立である」というような説明もあり、ここまでくると意味がつかめない。
「言葉の魂の哲学」という本によると、第2章の第2節で夏目漱石の「門」からの引用で、
「どうも字と云うものは不思議だよ」と始めて細君の顔を見た。
「なぜ」
「なぜって、いくら容易い字でも、こりゃ変だと思って疑ぐり出すと分らなくなる。この間も今日の今の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今らしくなくなって来る。――御前そんな事を経験した事はないかい」
ようは、この時点で文字の「ゲシュタルト」が崩壊している。ドイツ語で「ゲシュタルトの法則とは、人の知覚がモノを見るときに、無意識のうちにひとつのまとまりとして捉える傾向をもっていること」を意味しており、一つのまとまりから為す意味が崩壊することを「ゲシュタルト崩壊」というようです。
漱石が書く主人公の宗助において「今」や「近」という字のゲシュタルトが崩壊しだしているシーンが描かれています。
「言葉の魂の哲学」に戻ると、「ウィトゲンシュタインによれば、言葉を理解しているということは、一方では、その言葉を他の言葉(表現)に言い換えられることを指すが、他方では、他のどんな言葉に置き換えてもしっくりこないことである」とも説明され、文字には固有のアスペクト(雰囲気or風景)があり、意味として代替可能であっても、アスペクトとして代替が不可能であるという言葉の意味性を指摘しています。
たとえば、「せつない」という言葉があります。辞書では「悲しさ・寂しさなどで、胸が締めつけられるような気持」と書かれています。「せつない」には、「せつない」だけが持つ風景があるわけです。
ちなみに、パソコンの画面の縦横比を「アスペクト比」と言います。ようするに「みえかた」を包括的に意味することに使われています。
「相」が変わると言えば「氷」が「水」になり「蒸気」にもなりますが、これを「相転移」と言います。そもそも、宇宙すらも稀有なエネルギーが相転移を起こしたのがきっかけだという学説もあるくらいで「相=アスペクト」が変わることは、そのものがそのものではなくなる瞬間のことに、大いなる意味があるということになります。