「アスペクト」の続き

例えば、バラバラになっている線を集めると「今」という字になる。そのとたんに、意味と音を持つことになり「相」が変わります。「風景」あるいは「見え方」が変わるわけです。途端に意味を持つことになります。

言葉の魂の哲学」という本に、「インドの高名な神秘思想家が悟りを開いた。彼が16歳のとき、よく晴れたある日、畑の間の田舎道を歩いていた。ふと目を上げると空高く一列の白鷺の群れが飛んでいた。たったそれだけのことで悟りを開いた」というエピソードが書かれていました。

悟りとは何かといえば、自分と世界との関係の「相」が変わることだと言えます。

そんな難しいことを私ごときが思索しても徒労にもなりませんが、「言葉」における「アスペクト」の変化という話から合点がいったことがあります。

その昔、コンピュータ言語の「C言語」と出会ったころのことです。解説本を2、3冊買ってきていくら読んでも、書いてある内容はそれなりにわかるし、書いてあるコードを打ち込めばその通りに動くのですが、本に書かれていること以外のことを自分なりにやろうと思うと、全く手が動きませんでした。

ところが、いくつかの常用する関数を使いこなしていくうちに、大げさに言うと「相」が変わる瞬間がありました。それを「理解」というのかというと、むしろ「アスペクト」が変わったという風にとらえたほうがすっきりする気がします。

例えば「英語」。中学校から習ったはずですが、自分で考えたことを英語にすることは出来ません。つまり、「今」でいうなら、習ったものがパーツでしかなく、「相」が変わるところまで自分の物にすることができていないわけです。

学問と言えば深い知識や思索が必要と思いがちですが、実は庶民にとっては、そんなに大仰なことではないと思います。何かがきっかけとなり自分の中で「相」が変わることで、見え方が変わってくることがあると思います。その瞬間に、自分にとっての世界が変わることが「アスペクト変化」あるいは「ゲシュタルト構築」なのだと思いました。

平安時代の貴族が使った「和歌」なども、たった31文字のパーツから世界が変わることを企図しているわけで、そのアスペクト変化がくみ取れているからコミュニケーションが成立したわけです。

西行が法華経の各章を、貴族の家を回ってそれぞれの章を和歌にしてもらったと何かに書かれていましたが、指定された法華経の章に対する深い理解がなければ、31文字に「相」を転換することは出来ませんし、その「相」転換が西行と共有できなければ意味をなさないわけです。

ようするに「アスペクト」変化によって、世界の見え方や関わり方が変わるということを考えるきっかけが得られたことが収穫になりました。それはまさに、同じ0度なのに水が氷になるような、あるいは氷が水になるような質的な変化だということだと自己流にとらえています。

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