「戦略」を間違うわけ

対立の炎にとどまる」という本についての紹介記事がありました。ちなみに、この本は図書館にありませんでしたが、同じ著者の本があったの予約を入れておきました。

海外の著者の翻訳本を読んで「なるほど」「さすが」と思ったことはほとんどないので、今回もきっと、そんな感じなんだろうとは思っているのですが、とりあえずは記事の言わんとするところをまとめてみます。

例としてコダックがジレットモデルで展開しており、カメラでは儲けずフィルムで儲けるという戦略にこだわったけれども、デジカメの流れには逆らうことができなかったという話が出されています。これは有名な話です。

時代の変化に対応できなかった例として引き合いに出されますが、ポイントはフィルムカメラからデジタルカメラにパラダイムがシフトすることに気づいた人たちもいたはずなのに、社内で「対立」が起きなかったことに問題があるという指摘になります。

レコードが無くなりました。レコードプレーヤとか針もなくなりました(一部には復古もあるようですが)。CDもなくなりかけています。DVDになる前はVHSもテープでしたが、テープもデッキもなくなりました。携帯電話はスマホになりました。

何かを生み出す力は必要ですが、淘汰される圧力がかかることにも感受性が必要です。製造業がどんどん海外に移転し、中国製に代わっていますが、これは日本がアメリカの製造業を追い込んだのと同じ構図です。

組織には主流派と非主流派があって、潜在的対立があることが多いわけです。特に古い事業体においては必ずと言っていいほどに、内部的な価値観の対立がある。あるいは営業とクリエィティブ(商品企画)の対立などもよく聞く話です。もっと多いのは経営陣のお年寄りと、若手の対立。

潜在的な対立(価値観の相違)があるのに、正面切った対立を起こすことができない事業体は、時代の変革に対応していくことができない懸念があるということになります。

主流派と非主流派の対立が単なる権力闘争でしかないことって多いように思うのですが、この「対立」は新しい価値を生む対立にはなりにくい気がして、もったいないように思います。

トヨタで社長が交代したのも、自動車の世界は今後大きく変わっていくわけです。社長が若返るだけで、時代に即した判断ができるわけでもないでしょうが、意見を取り入れやすくはなると思います。ただし、意見を聞いたとしても妥協的折衷案で場を収めようとするのはリーダーの資格がありません。

中曽根さんが総理大臣の時、官房長官が後藤田さんだった。二人は、決して意見が合うわけではなかった。イラン・イラク戦争の時に機雷の掃海艇を出す出さないで意見が対立したけれど、中曽根さんは後藤田さんの意見に従う判断をした。

最高権力者に異を唱える後藤田さんも凄いですが、その後藤田さんの意見を斟酌して自分の判断を変える中曽根さんも凄いなと感じ入る次第です。これが、コダックにはなかったのでしょう。今の日本の政治も「コダック化」したいるのかもしれません。「忖度」など、最たる現象じゃないでしょうか。

変化の時代において価値観の「対立」を、どのように判断できるかが、これからの時代の権力者の才覚になっていくといえそうです。大企業だから「経営トップは前時代の爺様でいい」というわけにはいかなくなるということのようです。

権力者がイエスマンや身内だけで回りを固めている限り、多かれ少なかれ「コダック現象」が起きる可能性を排除できません。日本が30年も停滞している以上、政治も企業も「変革」が必要だということじゃないでしょうか。

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