大鏡:其04《帝紀-陽成天皇》
第57代 陽成天皇(868-949)
清和天皇の第1皇子。母は藤原高子。2歳で東宮に立ち9歳で即位した。治世は8年で退位してから二条院にいた。退位後65年の81歳で崩御した。法事の願文に「釈迦如来の一年の兄」と書いた。おもしろくはあるが仏よりも長生きしたというのは思い上がりで後世の成仏の妨げになったという夢を見た人もいた。
- 釈迦は80歳でなくなったと伝えられている。
御母后のことと業平との関係など
御母后の二条の后宮・藤原高子は清和天皇より9歳年長で后が27歳のときに陽成院を生んだ。41歳のときに皇太后宮になった。
まだ深窓で育っていたとき在原業平が高子を連れ出してしまい、基経、国経ら兄たちが取り返しに行った。そのときに業平が歌を詠んだ。
- 藤原国経(828-908)は「今昔物語」にも書かれている逸話がある。彼には若くて美しい夫人がいた。その夫人を基経の子の時平がだまし取って連れ去ってしまう。母を奪われた国経の息子の藤原滋幹の立場から描いたのに谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』という小説がある。
- 国経が70歳ころに夫人は20歳くらいであった。この70歳くらいの国経と夫人との間に滋幹という子が生まれている。夫人は時平に連れ去られてのちに、敦忠を生んでいる。この敦忠も「大鏡」にエピソードが書かれている。
- 敦忠は時平が連れ出したときに妊娠していたという話もあるが、いまさら確かめようもない。
- ちなみに時平は菅原道真を讒言によって左遷に追い込んだ張本人で、その祟りで若死にし子孫に藤原本流をつなぐことができず時代は、道真をかばう側にいたこともあって弟の忠平へと移ってしまう。
武蔵野は けふはな焼きそ 若草の つまもこもれり われもこもれり
《今日だけは焼かないでください、妻も我も身を隠しているのですから》
後に高子が東宮の女御として藤原の氏神大野原神社に参詣したときお供の中にいた業平が、
大原や 小塩の山も けふこそは 神代のことも 思ひいづらめ
《大原の小塩の山の神も天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に従って下ったことを思い出しているでしょう》
と詠んだが、含意はその昔の私達の関係を思い出しているのでしょうねとの意を込めている。業平との関係がこのようなわけであった上に年齢の差もあって寵愛を受けられなかったかもしれない。
私(世継)のような下賤なものが、このような秘事を明かすのは恐れ多いことであるが「伊勢物語」などを読めばわかること。「昔はおもしろいことがあったものだ」と言って世継が笑った。
- 陽成天皇の退位は藤原基経の強要によるものであった。天皇の退位すらも藤原氏の手に帰していることは注目に値する。
- 業平は惟喬親王同様に、時流からはみ出した反藤原系の人物であるため、藤原氏の政権基盤強化において重要な役割を果たすべき女性と情交をもつことをさりげなく「憎く」持ち出している。
- 在原業平は、父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が平城天皇から嵯峨天皇の子孫へ移っていたことで臣籍降下した。