後藤新平から見る明治という時代

後藤新平は1857(安政4)年に生まれて 1929(昭和4)年に亡くなっています。台湾総督府民政長官。南満州鉄道(満鉄)初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長などを歴任しています。

東京市長時代に関東大震災にあい、帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画の立案・推進にも従事している。

高野長英とは遠縁であった(高野長英に関してはいずれ調べたうえで概要を掲載する予定)。

廃藩置県後、胆沢県大参事であった安場保和に認められ、後の海軍大将・斎藤実(この人も仙台藩水沢城下の藩士)とともに13歳で書生として引き立てられ、県庁に勤務した。


安場保和は、1835(天保6)年生まれ、 1899(明治32)年死去。肥後細川藩出身で薩摩・長州の藩閥政府と微妙な距離を保ちつつ、東北・北海道地方の開発と近代化、人材発掘に尽力した。先祖である安場一平は、東京高輪の細川藩邸で、細川藩預かりとなっていた赤穂浅野家筆頭家老大石良雄の介錯(元禄16年2月4日 )を行っている。

1869(明治2)年に 胆沢県大参事になり後藤新平(当時12歳)ら地元の俊英な少年5名を見い出し、県庁給仕とする(←どうやって俊英なる少年を見出しているのか?)。1872(明治5)年に岩倉使節団に加わり欧米を視察。帰国直後から福島県令となる。

二女の和子を後藤新平の妻にしている。岩倉使節団から帰国後に福島県令になった時に後藤新平(15、6歳)を福島洋学校、須賀川医学校に紹介している。


安場が愛知県令を務めることになり、後藤新平は、彼についていくことにして愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)の医者となり、目覚ましく昇進して24歳で学校長兼病院長となる。

1882(明治15)に実績や才能を見出され、軍医の石黒忠悳に認められて内務省衛生局に入り、官僚として病院・衛生に関する行政に従事する。

1890(明治23)には、ドイツに留学。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えられ、1892(明治25)年には長與專齋(おさよせんさい)の推薦で内務省衛生局長に就任するが、1893(明治26)年に相馬事件に連座して衛生局長を非職となり失脚し、長與專齋にも見捨てられる破目となる。


長與專齋は1838(天保9)に生まれて 1902(明治35)年に死去している。1861(文久元)に長崎でオランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修めている。安場保和らとともに岩倉使節団として米欧を視察している。「衛生」という言葉は長與が作っている。山県有朋と肌が合わず、軍医本部次長の石黒忠悳が兼務で衛生局次長に迎えられ、衛生局内では長與局長に劣らない力を持った。


石黒忠悳(ただのり)は1845(弘化2)年に生まれ 1941(昭和16)年(敗戦の4年前)に96歳で亡くなっている。幕府医学所を卒業。幕府が倒れ医学所も解散し医学所の後身である大学東校(東京大学医学部の前身)に勤める。1871年、松本良順の勧めで草創期の軍医となった。

後藤新平の才能を見出した。相馬事件で後藤が衛生局長を非職となるが長与専斎と異なり後藤を見捨てず、その後ろ盾となり、日清戦争の検疫事業を後藤とすることを児玉源太郎に提案した。検疫事業の成果により後藤は内務省衛生局長に復職し、また児玉に認められたことで児玉の台湾総督の下で後藤が台湾総督府民政長官に起用されるきっかけとなる。

相馬事件については別稿にまとめる。同じく、松本良順についてもいずれ別稿にまとめたい。

それにしても、明治期を作った幕末の人々は、人材を見つけて引き上げるのに、藩などの派閥意識をあまり頓着せず優秀な人材を起用していることに注目したい。

会津出身で会津戦争負けて陸奥国斗南(青森県むつ市)へ移住させられた少年の柴五郎を引き上げたのは野田豁通(ひろみち)で熊本藩士。弘前県の県庁を青森に移して青森県とした。この野田が育てたのが後の陸軍大将の柴五郎。このように藩閥とか派閥にこだわらず、幕末の人々には優秀な人材を見極める力があり、育てるという時代でもあったようだ。

それと、起用された人材においても、与えられたポストに執着を見せず、何か事があれば、ためらうことなくポストを放棄しているにもかかわらず、そこから再び起用されることで歴史に名を残している。人物が傑出していることもあるとしても、起用する側にもそれなりの度量があったことが、新しい時代を作っている。

この激動の時代において、優秀な人間こそが流動していた。人材が流動していたから明治ができたのではなく、偉大な人材ゆえに流動する先々において偉業を成し遂げ、その成果において流動することを求められるという循環があったのだろう。

翻って現代は全く新しい時代を作る気概と仕組みに欠けていることが、日本の停滞を生み出していると言えそうだ。権力を持つ者には、英明な人物を見つけ、自己の責任で引き上げるだけの先見の明もなく、また、英傑が引き上げようにも引き揚げるべき英明な人材もいない。

雇用する側には人物を見抜く力がなく、雇用される側には俊英な士がいないことによる。「俊英」とは知能指数や知識の量や学歴などで測れるものではなく、発想力や創造力や行動力を基準にした人材発掘のスキームを作る企業が優位に立つことができそうだ。

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